2010年8月24日火曜日

中国人の母

これは私の実話です。
ママは中国人です。
日本人である父親と結婚するために、
国の家族と離れた日本でがんばッて暮らすことにしたそうでした。
父親は結婚して、ママに日本語を懸命に教えました。
それでママも日本語が上手になッたようでした。
そんな中、うちのお姉ちゃんが日本で生まれました。
そして、中国に帰国した時、私が生まれました。
でもね、うちが物心ついた頃には…
ママは毎日、ことあるごとに父親に殴られるようになってしまってた。
そして、あからさまに、父は不倫を続けてた。
父の暴力はウチ等に向けられることも度々あった。
でも、そのたびにママがかばってくれて、ウチ等の替わりに殴られてた。
ウチ等はいっつも、そんなママの腕の中で、ただただ泣いてることしかできんかった。
お母さんは一回だって、泣いたことがなかった。
いつも笑顔で、「大丈夫」としか言ってくれんかった。
その頃のうちは小学校低学年。
だから、ママがいくら殴られても、お父さんの恐怖は感じれるのに、
笑顔で大丈夫ってゆうお母さんの辛さを、全く気付いてあげれんかった。
本当に辛くないもんだと思ってしまってた。
どんなに辛くてもママが離婚せんかったのは、
多分極度の負けず嫌いだったからだと思う。
絶対大丈夫だって大見得切って、
猛反対された日本人との結婚を成功させて…
それなのに離婚しちゃったら、中国に置いて来た家族に顔向けできないじゃんね?
そんなちょっとしたプライドのために…
あんなに傷付かんでも、良いじゃんね。
うちには絶対真似できん。
お母さんが口うるさく怒るのは、
ウチ等に立派な大人になって欲しいから。
そんなこと、小学校低学年なウチには全く理解できとらんかった。
どんなにママがウチ等を愛してくれとったんか、
全く理解できとらんかった。
じゃけぇ度々、ママなんか大ッ嫌ぃッてゆっとったし、
ママなんか死んじゃえッて、めっちゃ言いまくっとった。

ウチが小学校3年生の頃、
お姉ちゃんは小学校6年生で、受験シーズンだった。
お父さんの暴力をいっぱい見てきたお姉ちゃんは、
暴力の重さが分からんくなっとった。
受験のストレスをめいっぱいウチにブツけてきた。
酷い暴力をいっぱい受けた。
家族で1番小さくて無力なウチは、そのストレスのブツけどころがどこにもなくて…
いっつもママに当たってしまっていた。
自由帳の丸々一ページにでっかく、「ママなんか死んじゃえ」って書いた。
ママの悪口しかかけなかった。理由は簡単。
お姉ちゃんとか父の悪口書いてバレたら、後が怖いから。
でもウチは、ママが世界で一番大好きだった。
お姉ちゃんの受験結果を発表する日がやってきた。
女学院は補欠、安田は合格、といった結果だった。
安田に受かったお祝いに、家族皆でお祝いすることになった。
その日は、ママがウチのコップを落として壊しちゃった。
ウチは泣きながら、「ママなんか大っ嫌い!死んじゃえっ!!」って言った。
ママは「ごめんね」って言って、静かにコップの破片を拾った。
ウチは不機嫌なまま、タクシーに乗ってお姉ちゃんのお祝いをする中華料理店に向かった。
その頃にはもうお母さんは笑顔で、うちも笑顔で、
「かんぱーい」って言って、ビールを飲もうとした。
その時、ママは泡を吹いて、唸りながら自分の顔を机の上に押し付けた。
ウチとお姉ちゃん、おばあちゃんは大パニックで救急車を呼んだ。
ママは病院に運ばれた。
意識不明で、重体。
ママは病気だった。
病名は、脳梗塞。
ウチはママに死ねって言ったことを、酷く後悔した。
ママが看護婦の人にオムツを替えてもらってた。
オムツには排泄物がついてた。
うちはそれを「汚い」って思ってしまった。
ママに家族全員で手紙を書いた。
父はママが倒れたことで、本当に反省して、手紙を書いてた。
ウチ等は家族全員で書いた手紙を泣きながら読み上げた。
お母さんの心電図が、父の手紙を読んだ時、大きく動いた。
・続く・

【広告】