2009年12月25日金曜日

トム&ジェリー 

ジェリーが大人になった頃トムはもうこの世にいませんでした。
トムは自分の命の終わりがすぐ傍まで来ているのを知ったとき、
こっそりジェリーの前から姿を消しました。

ジェリーの前で弱って涙もろくなった自分を見せたくなかったのです。
トムはジェリーの心の中ではずっと喧嘩相手として生きつづけたかったのです。

トムがいなくなったのに気づいたときジェリーは悲しみはしませんでしたが、
退屈になるなと思いました。トムとの喧嘩は最高にスリルのあるゲームでしたから。

胸の奥が不思議にチクチクはするのですが、
それが何なのか、ジェリーにはよくはわかりませんでした。

トムの願い通り、ジェリーの心の中でトムはいつまでも仲の悪い喧嘩相手でした。
そんなある日ジェリーの前に一匹の猫が現れました。トムよりのろまで体も小さい猫です。

喧嘩相手のトムがいなくなって寂しかったジェリーは、
今度はこの猫を喧嘩相手にしようと考えました。

そこでジェリーは、穴のあいた三角チーズが仕掛けられたねずみ取りを利用して、
その猫に罠をかけることにしました。
いつもトムにしていたように。
ジェリーは物陰に隠れて、
ねずみを求めて猫がねずみ取りの近くに来るのを待っていました。
そして思惑通り猫が罠に向かって近づいてきます。

ジェリーはしめしめと思いました。
いつものように、自分がねずみ取りにひっかかるふりをして、
逆に猫をねずみ取りにかけてやるんだ。
うふふ。

手か尻尾を挟んだ猫の飛び上がる姿が頭に浮かび愉快です。
でも、その猫はトムではありません。

猫はチーズの近くまで来たとき、
ジェリーが出てくるより早く美味しそうなねずみの匂いに気づき、
目にもとまらぬ速さで隠れていたジェリーに襲いかかってきました。
ジェリーはいつもトムから逃げていたように逃げましたが、

トムよりのろまなはずの猫にすぐに追いつかれてしまい、
体をガブリと噛まれました。
ジェリーも噛みつき返しましたが、
トムより体が小さいはずの猫は平気です。

血まみれのジェリーは薄れ行く意識の中で、
本当は鼠が猫と喧嘩して勝てるわけがないことと、
いつもトムはジェリーに「してやられた」ふりをして、
わざとジェリーを捕まえないでいたことを、
そのとき始めて知ったのです。

トムの大きな優しさと友情に気づいたのです。

そしてトムがいなくなった時の
胸の奥のチクチクの正体にも気づきました。
かけがえのない友を無くした悲しみでした。

ジェリーの魂が体を抜けた時、
空の上には優しく微笑みジェリーを待っているトムがいました。

「また喧嘩ができるね」
「のぞむところさ、今度こそは捕まえてやるぞ」

2009年12月21日月曜日

還暦を迎えた母

786 おさかなくわえた名無しさん 2007/01/29(月) 00:39:04 ID:Qg9+Mz9u
還暦を迎えた母に誕生日おめでとうメールを送った返信。

件名:ありがとう
本文:ついに60代になってしまいました。
思い返せば、30代は小さなあなた方を夢中で見つめていました。
40代は、若々しく成長していくあなた方に見とれていました。
50代は頼もしく輝いていくあなた方に目を奪われていました。
あなた方がみんな素敵な伴侶を見つけ、巣立って行ってから迎えた60代は
20代の頃に戻ってもう一度お父さんと見つめ合おうと思います。


うっかり感動してしまった。

2009年12月19日土曜日

祖母の手紙

彼との結婚を私(25歳)の父と母は猛反対していました。
彼は昔両親を亡くして、祖父母に育てられていました。
そして4年前祖父が亡くなり、彼は32歳になる今まで84歳の祖母と二人暮しでした。
それが反対の理由でした。
「何も結婚してすぐに介護が目の前にあるような結婚をする事はない」と。
結婚を申し込みにきた彼と彼の祖母ににもそう言い放ったんです。
その2日後でした。
彼の祖母が置手紙を残していなくなりました。
仕事から帰った彼からの電話で、私達は必死で探しました。
探して探して探して
空が明るくなりかけた頃、彼の祖父の眠るお墓の前に座りこんでいる祖母を見つけました。
歳も歳だったので衰弱し、そのまま即入院になりました。
その事がきっかけで、私の両親も私達の結婚を許してくれ
結婚式はせず、すぐに籍だけをいれました。
もう10年近く前の話です。
祖母は入院後1ヶ月ほどで亡くなりました。
その時の手紙です。

●●へ(彼の名前)

ばあちゃんは本当に貴方がかわいかった。
貴方のお父さんとお母さんが死んだ時
私のこの先の人生は貴方の為に使っていこうと心に誓いました。
ばあちゃんは年であるしお金もない
何も何も持ってはおりません。
貴方への愛情だけです。
そして貴方はばあちゃんの事をとてもとても大切にしてくれた
とてもとても良い子に育ってくれました
そして人生の伴侶となるべき相手を見付けました。
でもばあちゃんがそれをじゃましているんだね。
幸せになってください。
ばあちゃんは貴方を育てる事が出来た事がとてもうれしいです。
とてもとても幸せでした。
妙子ちゃん(私)と、どうかどうか幸せになってください。

コンビニ強盗

何年か前、俺の親戚の叔父家族がやってるコンビニにも
客が居るときに強盗入ったことがある。ちょうど叔父がレジ番やってた時。

買い物を精算するふりをして、果物ナイフを向けられたらしいんだが、
叔父はすぐそばに新聞紙を筒状に丸めて、ガムテープでグルグル巻いて止めたものを常備してたんで、
即座にそれをひっつかんでレジ台を強烈に一発「バンっ!」って叩いて、>>1の人と同じようなことを大声で叫んだらしい。

んで強盗に「んな金あるわけねぇ!」と威嚇してる流れで、いかに自分たちフランチャイズ・オーナーの取り分が少ないか、
本部に搾取されてるか、いかに自分たち家族が倹約に倹約を重ねて細々と生活しているかをぶちまけるというか愚痴が入り出したら、
叔父は涙ながらになっちゃって、最後は強盗に遭った恐怖とかどうでもよくなって、
厳しいコンビニオーナーの生活がこんなに苦しいのに、さらに強盗かよみたいな状況に情けなくなって号泣。

犯人も生活苦だったらしく、もらい泣きしながら「申しわけありません」と深謝して、叔父に頼んで警察呼んでもらったそうな。
犯人逮捕まで店内に居た人たちも事情聴取とかされたそうだけど、叔父の話を聞いたことで、
みんな結構大量に買い物をしてくれたらしい。

犯人のほうはとりあえず未遂ってことと自首と同じってことと、何の縁か叔父が所轄の担当さんに何度か電話したり手紙で
「彼は立ち直れるから、刑務所には送らないでやってくれ」って頼んであげたこともあってか、
犯人は執行猶予と保護観察付きの判決もらって社会復帰。
釈放の足で叔父の店にやってきて深々と謝罪し、担当さんから聞かされた叔父の嘆願のことに感謝したそうな。

叔父は、その元犯人にうちでバイトしないかって声かけたけど、かれは感謝した上で断って、
自力で更生するって約束して実家のほうに身を寄せたらしい。
で、何年かして彼がまた叔父を「私のこと覚えてますか?」と訪ねてきた。
郷里で小さいカレー屋だかを起こして、なんとかやってるらしい。今でも彼から毎年、歳暮中元と年賀状は届くそうだ。
叔父の家族では、「こんなことって本当にあるんだねぇ」って、今でも話すらしい。

以上、まるで「深イイ話し」みたいに出来すぎた話しだけど、ぜんぶ俺が今日作った創作話しです。

2009年12月17日木曜日

お地蔵さん

69:名無しさん@十周年2009/12/16(水) 21:53:41 ID:UtpwrUld0 (1)
近所にでかい桜があって、うちの土地の前が通り道。
毎年花見帰りの奴らがうちにゴミを捨てていくから、今年からちっちゃいお地蔵さんを置いてみた。

ゴミが綺麗さっぱりなくなった。
子供が拝むからか、何人か外国人観光客が行き帰りに拝んでいた。
週の頭には、誰がしてくれたのか、赤いちゃんちゃんこが着せてあった。
それからは、お願い事の名刺がお地蔵さんの前に置かれるようになった。
とうとう今日は近所のおばあちゃんがお花をお供え。

2000円のお地蔵さんが、俺の知らない間にどんどん出世していっている。
悔しいから、お地蔵さんの待機場所を雨よけのトタン屋根から
木造のインチキお社に改造してやった。

2009年12月16日水曜日

カーチャン

J( 'ー`)し たけしへげんきですか。いまめーるしてます

(`Д)   うるさい死ね メールすんな殺すぞ

J( 'ー`)し ごめんね。おかあさんはじめてめーるしたから、ごめんね

(`Д)   うるさいくたばれ、メールすんな

J( 'ー`)し お金ふりこんでおきました。たいせつにつかってね 食事はしていますか?

(`Д)   死ねくそ女

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
            o
__        ゚ 
 母 |
 の |
 墓 |  ∴  ('A`)カーチャン..........
──┐ ∀  << )
500 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿

2009年12月15日火曜日

炊き込みご飯

俺は小学生の頃に母の作った炊き込みご飯が大好物だった。
特にそれを口に出して言った事は無かったけど母は判っていて
誕生日や何かの記念日には我が家の夕食は必ず炊き込みご飯だった。

高校生位になるとさすがに「又かよっ!」と思う様になっていたのだが
家を離れるようになっても、たまに実家に帰ると待っていたのは母の
「炊き込みご飯作ったよ。沢山食べなさい」の言葉だった・・・

会社に電話が来て慌てて向かった病室には既に近くの親戚が集まっていた。
モルヒネを打たれ意識の無い母の手を握り締めると母の口が動いた。
何かを俺に言いたそうだった。母の口元に耳を近づけると
「炊きこ・・・たよ。たくさ・・・・さい」と消え入りそうな声で言っていた。
それが最後の言葉だった。

「ママの作ったスパゲッティー大好き!」口の周りを赤くして
スパゲッティーを食べる娘とそれを幸せそうな目で見つめる妻を見る度に
母の炊き込みご飯が食べたくなる

うざいメール

色々な事が重なって、
友達に

「死にたい。こんな自分嫌い」

とうざいメールした。
夜中だったし絶対寝てると思ったら五分後、

「何があったか知らないけど、私の好きな人の事を嫌いとか言わないでくれる?」

と返事がきた。
まじめに嬉しくて涙がでた

2009年12月14日月曜日

お母さんの気持ち

J( 'ー`)し
自分が多少つらくても、腰痛くても頭痛くても、子供が元気にしてくれてるのがすごく嬉しいの。
元気そうな子供の姿見たり声聞いてるとね、本当に嬉しいの。
別に感謝してくれたり、無理に気にかけてくれたりしなくていいの。
苦労して育てた自分の子供が、自分の足で立って人生歩んでくれることが、何より嬉しい。

悩んでる、行き詰ってる子供を見るのは本当につらい。
何とかしてあげたい、どうにかしてあげたいんだけど、私じゃ何もしてあげられない。
余計な口出ししちゃって、後悔する事もある。
アナタにはアナタの考えがちゃんとあるのにね。
でも、見守るだけしかできないのはつらい。
苦しんでる姿見ると、心が張り裂けそうになる。
親なのに、何でこんなにも、何もしてあげられないんだろうって、情けなくなるよ。
700 名前: 2/2 [sage] 投稿日: 2009/11/21(土) 16:53:56.08 ID:SDb4Ez+e0
今楽しいアナタへ。アナタが楽しく生きているという事実が、お母さんの生きがいです。

今苦しいアナタへ。何もしてあげられなくてご免なさい。頼りなくて本当にごめんなさい。
でも、つらくても生き抜いてください。
お願いだから、自暴自棄になったり、自分を卑下したりしないでください。
生きる場所は必ずあります。生きる道は必ずあります。
アナタが、もがいて、もがいて。そこに辿り着くことを毎日祈っています。
私にできることが何かあるなら、どうか言ってください。
誇大表現でも何でもありません。
アナタが強く生きてくれることが、お母さんは自分の命よりも
大事です。

2009年12月13日日曜日

姉妹の盃

604 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:2008/07/29(火) 13:06:13 ID:NJRpOhWp
小学校6年くらいの時の事
親友と、先生の資料整理の手伝いをしていた時、親友が「アッ」と小さく叫んだのでそちらを見たら、
名簿の私の名前の後ろに『養女』と書いてあった。

その時まで実の両親だと思っていたので心底衝撃を受けた。
帰り道、どんな顔で家に帰っていいか分からず、公園のブランコに座って立てなくなった私に、
親友はずっと付き添っていてくれ、
「よし、じゃあ私と姉妹の盃を交そう」とか言って、カバンからメロンのアイスの容器
(メロンの形のやつ)を出して、水道の水をくんで飲んだ。
一体何のテレビを見たのか、「盃の契りは血のつながりより強いんだよっ」なんてメロンのカップ片手に言う親友がおかしくて、思わず泣きながら笑いあった。

十数年たって私が結婚する事になり、結婚直前に二人で酒でも飲む事にした。
『あの時はありがとう』と、驚かそうと思って、あの時もらったメロンのカップをカバンにこっそり忍ばせて飲んでたら、突然親友がポロポロ泣き出して

「あの時、あの時、気付かせてしまってごめんね」と。

『養女』の文字を隠さなかった事をずっとずっと悔やんでいたと泣いた。

そんな事、反抗期に親に反発しそうな時も、進学の学費面で親に言えなくて悩んだ時も、
机の上でメロンのカップが見守っていてくれたから、あなたがいてくれたからやってこれたんだと伝えたかったのに、

ダーダー涙流しながらダミ声でドラえもんのように「ごれ゛ぇ」とメロンのカップを出すしか
できなかった。
親友もダーダー涙流しながら「あ゛ぞれ゛ぇ!」と言って、お互い笑って泣いて、酒を酌んだ。
もちろんメロンのカップで。
もうすぐ親友の結婚式があるので思い出した

2009年12月12日土曜日

チョーさんの手紙

16 名前:水先案名無い人 投稿日:2004/03/21(日) 02:24 ID:ykGfugCI
志村へ
                                                          
この手紙をもって俺のコメディアンとしての最後の仕事とする。
まず、俺の芸能人生を解明するために、DVDを買うようお願いしたい。
以下に、コントについての愚見を述べる。
コントを考える際、第一選択はあくまで「笑いを取れば勝ち」という考えは今も変わらない。
しかしながら、現実には若手芸人の多くがそうであるように、他人をバカにして笑いを取ったり、
素人にツッコミを入れるだけで内輪受けに走っている事例がしばしば見受けられる。
その場合には、企画段階から綿密な計算と準備が必要となるが、残念ながら未だ満足のいくコントには至っていない。
これからのコントの復活は、綿密な企画立案、それとライブの復活にかかっている。
俺は、志村がその一翼を担える数少ない芸人であると信じている。
能力を持った者には、それを正しく行使する責務がある。
志村にはコントの発展に挑んでもらいたい。
遠くない未来に、素人いじりや他人をこき下ろすコメディがこの世からなくなることを信じている。
ひいては、俺のネタを研究した後、計算された笑いの一石として役立てて欲しい。
リーダーは活ける師なり。
なお、最後に、 お笑い芸人でありながら、多数の人を泣かせて旅立ったことを、心より恥じる。

                                           いかりや長介

2009年12月11日金曜日

チンピラ

334:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2009/07/10(金) 10:05:13 .60 ID:kAWElravO
和む話か微妙だしコピペでも無いが昨日あった話

俺普段原付きで移動してんだけど
いつものように信号待ちしてる車のわきをタラタラはしってた
んで信号青になったのに車が一行に動こうとしない
なんかあったんなか?位に思いながら列の先頭までいくと
横断歩道の真ん中で
雪駄、タンパン、派手な柄シャツ、茶髪坊主でサングラスかけてふてぶてしくタバコふかしながらチャリまたがってるチンピラ代表みたいなやつがいた
うわぁ。たちワリィなと注意しようと思ったら
腰の曲がった小柄なおばあちゃんが乳母車みたいなの押しながらヨチヨチ横断歩道渡ってた。
おばあちゃんが渡りきったらそのチンピラが止まってくれてた車の運転手にメンチ切ってどっか行った。

なんかすごくいい気分になった。

2009年12月9日水曜日

女子高生

389 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:2007/09/06(木) 21:14:00 ID:Wyiyea0B
人通りが多い道で信号待ちしてたら、自分の斜め前に立ってる女子高生2人組に目の不自由なおばあちゃんが追突した。
ぶつかられた女子高生は「ああん?」みたいな顔で振り返った。
でもすぐにおばあちゃんの目が不自由なことに気づいたみたいだった(白い杖持ってたから)。
信号が青になり、たくさんの人が横断歩道を渡ってきた。
女子高生2人はちょっと腕を広げて押し黙り、SPのようにおばあちゃんの前両脇を歩き出した。
渡ってくる人達がぶつからないように、おばあちゃんの歩幅に合わせて超ゆっくりと。
すぐ後ろを歩いてるおばあちゃんをチラチラ振り返りながら(おばあちゃんは気づいてない)。
人通りが少なくなると、女子高生達は自分達のペースでスタスタ歩き出した。
学校での出来事を話しながらガハガハ笑ってた。
 

2009年12月8日火曜日

ホームセンターでの出来事

940 :ほんわか名無しさん :2007/02/09(金) 00:16:33 0
くそったれホームセンターにいた時の出来事

クリスマスイブのある朝
サービスカウンターの時計売り場でボロボロの時計の電池交換を依頼された。
持ってきたの老夫婦だった。

丁寧な口調で「この時計が動かなくなってしまって、
電池交換して動けばいいんですが・・お願いします。」

このくそ忙しい時にこんな時計の電池交換かよ!
買った方がはえーよ!!と思っていた。
電池を機会で測定すると十分電池はある・・ってかこれぶっ壊れてんな・・

老夫婦を店内放送で呼ぶと事情を説明した。
するとおじいさんが
「おまえじゃあ買ってやるよ。時計ないとお前病院の帰りのバス・・」というと
おばぁさんが「じゃあお花買えないねぇ・・」
おじいさんが「花は今度にしよう・・またお花安い日やるよねお兄さん?これください」
おばぁさん「そんな高いのじゃなくても!・・」

3780円の時計だった・・・
俺「ここでしていかれますか・・」
おじいさん「していったらいいよ」うなずくおばぁさん

わざと時計を落として、俺「すみません!こんな傷ついた時計は正規の値段では売れません500円でいいです。」
おじいさん「だいじょぶだよ、ぜんぜんきずなんてついてない」
といいはって5000円札を出してくる。
傷がついてねーのは視力1・5の俺が一番知ってる!いうとうりにしろ!

チェルノブイリ

746:本当にあった怖い名無し 2009/06/09(火) 21:18:26 ID:iJPJ+Dww0[sage]
チェルノブイリ事故は、メーデー前の金曜日深夜に起きた。

制御棒を完全に入れれば、炉心は止まる。
だが、中途半端に入れれば、残った核反応で
発電できるのではないか? という実験中だった。

#安全装置は切られていた。
金曜日の深夜。技師や作業員たちは、
「この仕事を終えれば休める!」と意気軒昂だった。

実験は暴走という結果を生み、休みは潰れた。
災厄。炉心融解、メルトダウン。

炉心直下には、核反応を制御するための冷却水プールがあった。
メルトダウンが進めば、そのプールの水で水蒸気爆発が起きるだろう。
どうしたか?

3人の男たちが
汚染された水の中を泳いでいって、プールの栓を抜いた。
彼らのことは誰も知らない。


アンドレイ・アナネンコ  ヴァレリイ・ベズパロフ  ポリス・バラノフ


彼らは、ひどい事故が「よりひどい事故」になることを防いだ。
ヨーロッパ全域が「死の森」になることを防いだ3人。
彼らのその後は、あえて語らない。

2009年12月7日月曜日

野球

幼い頃に父が亡くなり母は再婚もせずに俺を育ててくれた。
学もなく、技術もなかった 母は、個人商店の手伝いみたいな仕事で
生計を立てていた。それでも当時住んでいた
土地は、まだ人情が残っていたので、何とか母子二人で
質素に暮らしていけた。

娯楽をする余裕なんてなく、日曜日は母の手作りの弁当を持って、
近所の河原とかに 遊びに行っていた。給料をもらった次の日曜日には、
クリームパンとコーラを買ってくれた。

ある日、母が勤め先からプロ野球のチケットを2枚もらってきた。
俺は生まれて初めての プロ野球観戦に興奮し、母はいつもより少しだけ
豪華な弁当を作ってくれた。

野球場に着き、チケットを見せて入ろうとすると、係員に止められた。
母がもらったのは 招待券ではなく優待券だった。
チケット売り場で一人1000円ずつ払ってチケットを買わ なければ
いけないと言われ、帰りの電車賃くらいしか持っていなかった俺たちは
外の ベンチで弁当を食べて帰った。
電車の中で無言の母に「楽しかったよ」と言ったら、
母は「母ちゃん、バカでごめんね」と言って涙を少しこぼした。

俺は母につらい思いをさせた貧乏と無学がとことん嫌になって、
一生懸命に勉強した。 新聞奨学生として大学まで進み、
いっぱしの社会人になった。結婚もして、母に孫を見せて やることもできた。

そんな母が去年の暮れに亡くなった。死ぬ前に一度だけ目を覚まし、
思い出したように 「野球、ごめんね」と言った。
俺は「楽しかったよ」と言おうとしたが、最後まで声にならなかった

2009年12月3日木曜日

オカンとドクちゃん

|               |
|               |
|         J( 'ー`)し.|
|            ( )  .|          ( 'A`)
|       幸    | |   |       辛  ノ( ヘヘ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|               |
|               |
|        J( 'ー`)し .|
|         o一o    |          ( 'A`)
|       辛  〈 〈    |       辛   ノ( ヘヘ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|               |
|               |
|               | 'ー,`)し
|               |o一o       ( 'A`)
|       辛       | U     辛   ノ( ヘヘ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|               |
|               |
|         J( 'ー`)し |
|           ( )  | ミ       Σ ('A` )
|       辛   | レ  |       幸  ノ( ヘヘ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|               |
|               |
|  ガンバルノヨ ドクチャン  |         ヽ(゚∀゚)ノ
|         J( 'ー`)し |            ( )
|       辛 ノ( ヘヘ   |       幸    | |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

姉ちゃん

177:ロウバイ(千葉県) 08/02(日) 19:02 KQ31jYcO
ソファーで寝てた俺

何となく目が醒めたら

横で姉が(´・ω・`)こんな顔して見てた。

俺『Σ(゚Д゚)どうした?』

姉『あのね、○○君の背中の所にお姉ちゃんの携帯があるの』

俺『あ、ごめん。ハイ』

姉『ありがとう』

近くでその様子を見ていた母が言うには、熟睡してる俺を
起こすに起こせず一時間ほど眺めていたらしい。
何度か鳴ってたらしいが気付かなかった。

ごめんな、姉ちゃん。

2009年12月2日水曜日

兄貴

266 名前:名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/09(日) 01:41:33

三人兄弟の末っ子だったオレ。オレが消防だった時に兄貴が高3だった。
車好きの兄貴は自動車会社に就職したくて大学に行きたかったみたいけど、
頭は決してよく無かったので私立の大学にしかいける大学がなった。兄貴は親父に大学に行きたいと言ったが、
親父は『家には金が無い。残りの兄弟もいるし、我慢してくれ。すまん。』と言った。
影でその話を聞いていた俺は、それまで自分の家が貧乏だと思ってはなかったので驚いた。
話を承知した兄貴は、肩を揺らして泣いていた。親父も自分が不甲斐無いのか泣いていた。
その後、兄貴は高卒で就職した。数年後、同様に二番目の兄貴も高卒で就職した。
そして、俺が高3になった時、俺も大学に行きたいと思っていた。
自分でもいうのはなんだが、学校での成績はかなりいいほうだった。
しかし、親兄弟には迷惑はかけれないと進学は諦めていた。迷惑をかけないように、
『オレも高校卒業したら就職するから。』って家族にいつも言っていた。
そんな時、2人の兄貴が『お前は安心して好きな道を歩め。大学に行きたいなら、はっきり言え。オレがどうにかしてやる。
お前は頭もいいし、オレの出来なかった夢を叶えてくれ。』と言ってくれた。嬉しかった。大声で泣いた。

数年後、オレは無事に大学を卒業、兄貴の夢でありオレの夢であった自動車会社に就職することができた。
兄貴は喜んでくれてはいたが、さぞ悔しかっただろうと思う。申し訳ないことをしたと思っている。
面と向かって言うのは照れるので、ここで言わせてもらいたい。
兄貴、ありがとう。いつか、最高の車を造るからな。

2009年12月1日火曜日

ビル・ゲイツの言葉

ビル・ゲイツがあるハイスクールでスピーチをした、
「学校では教えてくれない人生に役立つ11のルール」というものが
インターネットで出回っています。

1、人生は公平ではない。それに慣れよ。
2、世界は君の自尊心を気にかけてはくれない。
  君の気分に関係なく世界は君が仕事を終わらせることを期待している。
3、高校を出てすぐ6万ドルの年収を稼ぎはしない。携帯電話(当時は高かった)
  を持った副社長にもならない。自分で両方を稼ぎ出すまでは。
4、先生が厳しすぎると思うなら、上司を持ってみろ。
5、ハンバーガーを引っくり返すということは沽券にかかわることではない。
  君たちの祖父母はハンバーガーを引っくり返すことを別の表現を使った。
  それはチャンスと呼ばれた。
6、君が失敗したらそれは両親のせいではない。文句を言わずに学べ。
7、君らが生まれる前は、君らの両親は今のように退屈な人たちではなかった。
  そんな風になったのは、君らのために支払いをし、服を洗い、君らがどんなに
  イケてるか、という自慢を聞いているうちにそうなったのだ。親の時代から生存
  する寄生虫から森を守る前に、自分の洋服ダンスのダニ駆除から始めよう。
8、学校は勝者・敗者を決めなくなったかもしれないが、人生は違う。
  学校によっては君が落ちこぼれないようにしてくれたり、正しい答えが導き
  出せるまで、何度でも機会をくれる。実際の人生とは全く似ても似つかない。
9、人生は学期ごとに分けられていない。夏休みは無いし、ほとんどの雇用主は
  君が自分を見出すことに興味を持たない。それは自分の時間にやれ。
10、テレビは本当の人生ではない。現実では、人は喫茶店にいつまでも
   居られるわけはなく、仕事に行かなくてはいけないのだ。
11、オタクには親切にしよう。彼らの下で働く可能性が高い。

から揚げ

313 名前:まい 投稿日:2000/04/04(火) 16:57
幼稚園の頃お絵描きの時間に先生が
「大好きなものを描いてね」といういやに抽象的なテーマをだした。

みんなは、「おかあさん」とか「愛犬」とか「お花」を描いていたが、
私は画用紙一杯に茶色の丸を何個も何個も描いた。

先生の「これ、なあに?」の問いに
「とりのからあげ!」と元気に答えた私。
教室内は大爆笑、「だって、好きなものって言ったやん」と子供心が傷ついた。

その絵を、返却され家に持って帰る事になり
「お母さんも笑うかなあ、」と心配になったが、お迎えに来た母に

「好きなもの、から揚げ描いたら先生も皆も笑ってん…」
ここまで話すのが精一杯で大泣きしてしまった。

母は満面の笑みを湛え「そっかあ!」とその足ですぐスーパーに行き、
鶏肉をいっぱい買って来てその日の夜と、次の日のお弁当にから揚げを入れてくれた。

年子の弟がいたので、「お姉ちゃん」というプレッシャーがあったのと、
食が細かったので、「これが好き」とか「これ食べたい」とかあまり言わない子供だったので
母はすごくうれしかったみたい。

父も「この子は酒飲みになるぞお」とうれしそうにから揚げをたべていた。
期待を裏切らず酒飲みになり、あてはいつもから揚げ、
身長も171センチと大きく元気に育った。

「から揚げの絵」は、いまも大切に実家に保管してある。
おかあさん、ありがとう。

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