2010年8月31日火曜日

坂井三郎

太平洋戦争中に坂井三郎という名戦闘機乗りがいた。
坂井はジャワ島付近で発見した敵偵察機を攻撃するために味方編隊から離れた。
するとオランダ軍の大型輸送機に遭遇。
当該エリアで飛行する飛行機は軍民武装を問わずに撃墜命令が出ていた。容易く撃墜する事は可能だった。
坂井はこの機に敵の重要人物が乗っているのではないかと考え、生け捕りにしようと味方基地へ誘導するために輸送機の横に並んだ。
この時、坂井は輸送機の窓に震え慄く母娘と思われる乗客たちが見えることに気づいた。
これを見て「逃がそう」と思った坂井は手を振ってその場を離れ、帰投後上官には「雲中に見失う」と報告した。
終戦50年程経った頃当時機内から坂井機を見ていたオランダ人の元従軍看護婦が、「あのパイロットに会いたい」と赤十字等の団体を通じて照会したところ、
当該パイロットが有名な坂井三郎であることを知り、非常に驚いたようである。2人は再会し、互いの無事を喜び合った。



あんがとめした

昼食に寄ったファミレスでの話し。
長文すんまそ。

俺の隣の席にお母さんと3~4歳ぐらいの男の子が座った。
あーうるさかったら嫌だなーと思いながら、自分の
オーダーを待ってた。
すると、その隣に座った親子の会話が聞こえてきた
母「○○は、お子様ランチでいい?」すると、子が
内緒話をするように母の耳に手を当てて(丸聞こえな訳だがw)
子「そいでいい」
母「もう少し声出してもいいよ。」
子「そいにする(笑顔)」
全ての子供がうるさいと思った俺謝れと自分に言ったよ。
で、料理が運ばれてきて食べてると
子「楽しいねお外でごあんは楽しいね」
と母とニコニコお行儀良く料理を待ってた。
親子の所に料理が運ばれてきて、
子「かあしゃんいたあきますするよ」と母を促しててホノボノ。


俺は食事が終わりコーヒー飲んでそろそろと思った時、隣の席から
子「ごちそうめちた」って元気な声が聞こえた。
こうやって、子供育ててるってスゲーななんて思ってたら、
母「今日はデザート半分こしようね」とデザートをオーダーしてた。
最後までちょっと親子を見てみたいと思い、ゆっくり新聞読みながら
コーヒーを飲んだ。
親子の元にデザートが届き、チラ見すると子が「あんまとめした」
とウェートレスにお礼してて、キューンとなった。
母「きれいだね。楽しく食べようね」
子「あんまとめした。かあしゃんあんまとめした」
と母親にもお礼を言ってた。
すると、母親が「帰ったら、とうちゃんにもありがとうって言おうね」
子「うん、とうちゃんあんまとめした」
ってデザートに拝んでて、あー躾って素晴らしいなと思ったよ。

ここらへんまでしか見てないけど、今日ほど結婚したいと思ったこと
は無かった。
長文スンマソ 読んでくれたら「あんがとめした」



半年ちょい前の俺へ

半年ちょい前の俺へ

そっちは午前4時だな。
部活で疲れてぐっすりだと思うが、頑張って起きろ
今から言う事をやってくれ。頼む、お前の為だから。しくじるなよ。

音をたてないようにしろ、気づかれるから。
まず、1階に降りて台所から包丁を持ってこい。
そしてお前のバカ兄貴の部屋の前に行き
ドアを開けて部屋に駆け込み一撃でぶった切れ。

バカ兄貴が首を吊ろうとしてる、その柔道の帯で作った輪っかをな。
そうしないとバカ兄貴が首吊って死んじまうぞ。
発見した時の光景と母さんの悲鳴はたぶん一生お前の頭から離れなくなる。
前日まで普通に相談に乗ってもらってた兄貴が次の日には死んでんだぞ
いなくなるんだ

あと兄貴に言ってやれ。
「さんざんアンタをバカにしてきたり、ケンカだって飽きるほどしたけど、学校じゃ自慢しまくるくらい好きなんだよ。」って

頼む。頼むよ。
頼むからこの文を半年前の俺に送らせてくれよ。
頼むよ。お願いします

「おやすみ。また明日な。」
って言ってたじゃねえか
バカ兄貴。

オタと犬

高校の時に犬を家族で飼った。
当時俺は真面目で、家では親に敬語、部活と勉強両立しながら、オタ生活を送っていた。
容姿は気持ち悪がられる事はないが、顔がデカくて口下手なせいでぼっちだった。
まぁ真面目な事もあって親からは期待され、姉がいたんだが、姉にも真面目な弟として振る舞っていた。
犬、しかも流行りのチワワを買うとあって俺は最初抵抗した。大体、ウチにそんな金あるのか!と思った。
でも実際チワワが家に来てみると、目茶苦茶可愛いかった。 しかし、俺は家族の目を感じて、親や姉の前では「よしよし」と撫でるくらいしかしてなかった。つんつんしてた。
ある日俺は留守番を任された。家には自分とチワワ(名前は太郎)のみとなったので高揚し、いつもの百倍は可愛がった。
「太郎タソはギザカワユスなぁ」「もきゅもきゅもきゅきゅ~♪」とか普段は絶対言わないことを口走ったりした。 それからは一人になった時は愛情を太郎に注いだ。
一緒に犬食いでチャーハン食べたり、お風呂入ったり、歯も磨いてあげた。
膝の上に乗っけて2ch一緒に見たり、TV観ながら一人腹話術で「太郎、この芸人面白いか~?」「ウン!ぼくは好きだお~」とかやったし、「お゛ほぉ~今日の太郎のうんちは臭いぞぉ~」ってトイレ処理もした。
極めつけは身体の至る部分を甘噛みしてあげて反応を楽しんでた。きゃん、とか吠えられると「痛かったか?フヒヒヒヒィ!」なんて悦に入ってた。
相当キモかった。顔の筋肉は緩みまくり、太郎になつかれようと犬の真似してたんだからよだれ垂れ流しだった
ある日の休日、遅く起きてしまった。家族はもう出てったかな、なんて思いながらリビングで太郎とじゃれてた。
太郎を指で突きながら「うりうりうりうりURYYYYYY!」「ちゅんちゅん!ちゅんちゅん!フヒィ!フヒヒヒヒ!ふひゃははははぁっ!?」ってやってたら、

「〇〇(俺)?何してんの?」

いないと思っていた家族三人が、いた。ただ単に俺が1番早く起きていただけだった。
俺含め4人は呆然としていた。

それからというもの、俺と家族との間の妙なわだかまりは消え去り、ちょっとした事で笑い合い、成績が少し落ちても笑って許してくれるようになってた。毎日が幸せでした。

ありがとう、太郎。

お前が治らない病気で天国に行ってから、ちょうど一年が経ちました。

2010年8月30日月曜日

今日

                      死   昨    過   お
                 明   ぬ   日.     ご   前
                 日   ほ   死.    し.    が
                    ど   ん.    た   無
                な   生.    だ.           駄
                ん   き.    誰.     今    に
               だ    た.    か.     日
                      か   が
                    っ           は
                      た

   ゙' 、,,_. -‐ ' "´ ̄ `゙''   ..,_
                   `゙'':.、
                      ゙':.、
.       r‐=ミ  .;..           ヾ、 .,,__
.        ヽ:::::ノ _,,.. ..,,_     -‐    ゙:.、 二二ニ=ミx
         ,,.  '"´ ,. ‐─-ミ 、  r= 、     :.:ミ       :,:;/
              {:::.:..:::::.:::::::゙:.\ヽ::::::}      :ミ.     ..;:/
      .:..     \::.::::.::.:.:.:ノ  ゙:.. ̄      :;,     .::/
    -‐ ‐   ∵∴:.:.7 ∴:´   ';         ;:  ,.:/
     彡'    : : :. .: /:. .: :. :.    i  ..,__     i,:;/
     ノ ..___,,.. -─- .._      ヾ ヽ       .;:'
        ノ           `ヽ  ヽ \       ;:

ホワイトデー

俺、結構モテル方で色んな女に言い寄られたよ。
皆綺麗だったり可愛かったりしたけど、誰に言寄られても
何か気が乗らなくて、その中の誰とも付合った事無かったんだよね。
バレンタインの時も結構な数のチョコを貰ったんだけど、
その中に、名前に見覚えはあるんだけど顔の浮かんでこない子のチョコがあったんだ。
皆手渡しでくれる中、その一つだけデスクの上に置いてあったから
後でお礼を言おうと思って、同じ課の友人にその子の事を聞いて話しかけてみたんだよ
その子は雰囲気が暗くて全体の印象も地味でなんだか精気に欠けるような子だった
俺が「チョコアリガトね」と言うと、「すみません、私みたいな・・・」って
聞き取れないくらいの声で言ったんだ。今まで接した事の無いタイプの女性だったよ
それから何かその子の事が気になって、何度か話しかけたりしたんだけど
「はぁ・・・」とか「いぇ・・」とかの反応だった。
それから暫くしてホワイトデーの日に、食事に誘ってみたんだ。
返事は「はい」とだけ貰ったんだけど、何か嬉しかったな。
食事の席では殆ど俺が喋ってたんだけど、流石に話すことも無くなって
暫く無言の時間が続いた。
暫く経って普段殆ど喋らない彼女が、どうして私を誘ったかと訊いてきたんだ
正直、俺もどうしてか判らなかった。俺が暫く無言で居ると
彼女は少しずつ自分のことを話し始めた。中学から虐められてた事、
職場では除け者だと言う事、これまでどう生きて来たかの経緯等・・・
そして最後に、私なんかを誘ったのは何故かともう一度訊いてきた。
こんな根暗で地味な私をどうして食事に誘ったかと。
俺は「確かに君は雰囲気暗いし今どきの女の子とは言えない。
けど、人を好きになるってのは見たままの外見や表面の性格だけじゃないだろ?」と答えた
俺はこの子の事が好きになってたんだなって、自分で実感したよ。胸の高鳴りとか
好きで堪らないって感じじゃなく、この子と居ると落ち着ける、安心できるって感じかな
「だから付合ってください」最後に俺はこう付け加えた。
彼女はその場で声を殺しながら大泣きしてた。
あれから2年と2ヶ月が経つ。彼女は相変わらず地味だけど、俺は彼女の事を愛し続けてる

2010年8月28日土曜日

デジカメ

正月休みの日に弟とデジカメを買いに行き、2人で楽しんでいた。

その日の晩、ばあちゃんが部屋になにか持ってきた。

「これデジカメにやれ」

キャベツの芯だった。


2010年8月27日金曜日

喪女のちょっといい話

おじいちゃんは老いから手足が不自由でトイレも1人では厳しい。
だから、いつもはおばあちゃんが下の世話をしてた。
おばあちゃん以外が下の世話をするの嫌がったからだ。
ある日、家に私とおじいちゃん2人になった。
おばあちゃんが倒れてしまい母と兄は病院、父は会社から直行したからだ。
おじいちゃんと留守番してると申し訳なさそうに
「喪喪ちゃん、悪いんだがトイレに…」って言った。
私は本当に馬鹿だなって思った。
一人じゃ行けないの知ってたくせに気が付いてあげられないなんて
孫、それも女には言いづらかっただろうなって。
トイレに行くとパンパースが小と大で汚れてた。
たくさん我慢させてしまった。
私はおじいちゃんの気を反らそうと学校であった笑い話を精一杯明るく話した。
お風呂場で体を洗ってパンパースつけてホッとした。
同時におばあちゃんは毎日これをしてるんだと思うと何とも言えない気持ちになった。
そして「悪かったね、ありがとう」って五千円をくれようとした。
おじいちゃんは本当に馬鹿だなって思った。
私が赤ちゃんの時、両親は共働きでした。
おしめを変えて育ててくれたのは貴方じゃないですか。
幼稚園だって塾の送り迎えだってしてくれたのは貴方じゃないですか。
あれは無償の愛でしょ?
私はおじいちゃんが大好きだよ?だからお金なんかいらないんだよって言った。
2人してちょっと泣いた。
その日からは介護の人を頼んだり、家族にも頼ってくれたりでおばあちゃんの負担も減った。



金運向上気功

すごいポケット

「このぽっけすごいねんで!!(`・ω・´)三3ムフー!!」

そう言って幼稚園の制服のポケットをパンパン叩いてた友達Aの息子
ポケットにはハンカチ、ティッシュ、お菓子、小指の先サイズのドラえもん、母親とのプリクラ、それにムシキングカードなどなど…
その子にとっての宝物が詰まってた
「ぽっけ叩いたら欲しいもん何でも出てくんねん(`・ω・´)三3フンフン!!」
ソレ聞いて少しイジワル言ってみた
「じゃあミニカー出してみて」
前から欲しがっていて 持っていない事は知っていた
その子はムキになって
「あるもん!!フン!フン!」とポケットをパンパン叩いて宝物を散らかしていった私はその子の隙を見てあらかじめ買っておいたミニカーを そっとポケットに忍ばせた

「フン!…あっ!! …フフ~ン♪」

得意気に出てきたミニカーを私に見せびらかしてたが、物陰で
(´・ω・`)??
みたいな顔してた
かなり萌えた

ある日Aが死んだ脳溢血だった 職場で突然倒れそのまま逝ってしまった
友達はいわゆるシングルマザーで家族は60を過ぎた御両親だけ
私達も悲しみにくれる間も殆ど無く、葬儀の準備の手伝い、関係者への連絡などで忙殺されていた
その間、彼はずっとジュウレンジャーの絵本を何度も何度も読んでいた

通夜が始まりしばらく経った頃、彼が居ない事に気付いた
私と手の空いた者が付近を探した

しばらく探していると友達Bから着信
小さな公園で見つけたとの事
急いで駆けつけるとBは公園の入口で、どういうワケかうずくまって泣いていた
フッ…と公園の中を見ると彼が居た暗い街灯の下、
「…お母さん、お母さん…お母さん…」
と泣きながら必死にポケットを叩いてた
周りには宝物が散らばっていた

恥ずかしながら20代女、その子慰める前に しばらくの間 泣き崩れてしまいました
声を殺して抱きしめる事しか出来なかった
いつの間にか集まってたみんなも泣いていた
あの日は全てが悲しくて仕方がなかった

あれから二年
もうポケットは叩く事は無くなった
代わりに

「ぐらふぃっくあーてぃすとになんねん(`・ω・´)三3ムフー!!」

が口癖になった
最近、ずっと絵を描いてるのはソレだったのか
どうやらBが 「お母さんの夢やったんよ」 と教えたらしいその話を聞いた瞬間、また泣いてしまった
子供の言葉で、何だかこっちの方が救われた気がしたんです

少し画家と混同しているみたいだけど、頑張れ
君には5人のお母さんがついてるぞ
その日までちゃんとAの分まで全力で見守ってるからね

パラオの話

 遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
 「あそこでみんな死んでいったんだ……」
 沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。

 太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
 老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
 日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。

 やがて戦況は日本に不利となり、
 いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。

 仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
 日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
 それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
 

 「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
 

 日本人は仲間だと思っていたのに……みせかけだったのか。
 裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。

 船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
 村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。

 しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。

 そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
 先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。

 その瞬間、彼は悟ったという。
 あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと……。

2010年8月26日木曜日

特攻隊

死んだばあちゃんが言ってた。
「特攻隊の兵隊さんたちは敵艦に突っ込む時、怖くて叫ぶんだよ。
でも、テレビみたいに天皇陛下バンザイ!何て誰も言わない。
みんな『おかあさーん!』って叫びながら死んでいくんだよ」
男が最期に帰る場所は、やっぱり母親かな・・。

2010年8月25日水曜日

中国人の母2

・続き・
もしかして、父の手紙に反応してる!?
ウチは悔しかった。
家族で一番ママを好きな自信があった。
父よりママを大切にしてる自信があった。
でも、これを読み続けたらもしかしたら…
ママが目を覚ましてくれるんじゃないかな?
そんな淡い期待を抱いて、何回も父の手紙を声に出し読み返した。
でも、ママの心電図は元に戻っちゃって…
それ以降動くことはなかった。
ママが意識不明の重体で、病院で寝込んでる。
なのにウチは、小学校に行かされた。
2日後、ウチが小学校に行ってるうちに、ママが死んじゃった。
病院にお見舞いに行く度にウチは涙を流してた。
なのに、ウチは泣けなかった。
皆泣いてた。父も泣いてた。
なのに、ウチだけ、泣けなかった。
ママが死んだことを、自分は悲しんでないのかな?
そんなことを考えちゃって、悲しくなった。
でも絶対に、涙は流れなかった。
骨を拾った。
ママの頭蓋骨の一部が、赤く染まってた。
これはママの血?ってきいたら、そうではないらしかった。
喉仏の紹介とかされた。
別にどーでも良かった。実感なんて、沸かなかった。
それが人の骨である、ということさえ、忘れていたかんじ。
通夜が終わって家に帰って自由帳を取り出した。
「ママなんか死んじゃえ」って言う文字を
「ママ、がんばって、生きぬいて」に変えてた。
もうママは死んじゃってるのに。
今更書き換えたって、ママが帰ってくるわけじゃないのにね。
無意識にした行動だった。

ママが居ないことが悔しくて、両親が離婚してる男友達を馬鹿にした。
そしたら、「お前の母ちゃんなんて死んでるくせに」って言われた。
なのにウチは、笑ってた。
「お前バカだろ」って言ってた。
これも無意識だった。
今、うちは中学2年生。
絶対に「死ね」と「殺す」は言えんくなった。
絶対に、暴力だけはふるえんくなった。
今でもドアのノックが聞えると、
ふと「お母さん?」って思ってしまう。
解約したママの携帯番号に、電話をかける。
まだ繋がってる気がするから。
「ママ、死んじゃった」
簡単に言えるのに。
まだママが帰ってくるって、心のどこかで信じてる自分が居る。
きっとウチはまだ、
ママが死んだことを
認めきれずにいるんだと、思う…。
認めなきゃ、いけないね。
頭は分かってるんだけど
もしかしてって…
心がついていけないの。
もっと、大事にしてればよかった。
死ねなんて言わなければ良かった。
ママの笑顔、大好きです。
ママの笑顔、忘れられません。
のんは、ママが、世界で一番大好きです。
長文な上、乱文で、お目汚し失礼いたしました。
読んでくれて、ありがとうございました。
がんばって、認めたいと思います。
これに書いたことで、お母さんの死を、認められた気がします。
本当に、ありがとうございました。

2010年8月24日火曜日

中国人の母

これは私の実話です。
ママは中国人です。
日本人である父親と結婚するために、
国の家族と離れた日本でがんばッて暮らすことにしたそうでした。
父親は結婚して、ママに日本語を懸命に教えました。
それでママも日本語が上手になッたようでした。
そんな中、うちのお姉ちゃんが日本で生まれました。
そして、中国に帰国した時、私が生まれました。
でもね、うちが物心ついた頃には…
ママは毎日、ことあるごとに父親に殴られるようになってしまってた。
そして、あからさまに、父は不倫を続けてた。
父の暴力はウチ等に向けられることも度々あった。
でも、そのたびにママがかばってくれて、ウチ等の替わりに殴られてた。
ウチ等はいっつも、そんなママの腕の中で、ただただ泣いてることしかできんかった。
お母さんは一回だって、泣いたことがなかった。
いつも笑顔で、「大丈夫」としか言ってくれんかった。
その頃のうちは小学校低学年。
だから、ママがいくら殴られても、お父さんの恐怖は感じれるのに、
笑顔で大丈夫ってゆうお母さんの辛さを、全く気付いてあげれんかった。
本当に辛くないもんだと思ってしまってた。
どんなに辛くてもママが離婚せんかったのは、
多分極度の負けず嫌いだったからだと思う。
絶対大丈夫だって大見得切って、
猛反対された日本人との結婚を成功させて…
それなのに離婚しちゃったら、中国に置いて来た家族に顔向けできないじゃんね?
そんなちょっとしたプライドのために…
あんなに傷付かんでも、良いじゃんね。
うちには絶対真似できん。
お母さんが口うるさく怒るのは、
ウチ等に立派な大人になって欲しいから。
そんなこと、小学校低学年なウチには全く理解できとらんかった。
どんなにママがウチ等を愛してくれとったんか、
全く理解できとらんかった。
じゃけぇ度々、ママなんか大ッ嫌ぃッてゆっとったし、
ママなんか死んじゃえッて、めっちゃ言いまくっとった。

ウチが小学校3年生の頃、
お姉ちゃんは小学校6年生で、受験シーズンだった。
お父さんの暴力をいっぱい見てきたお姉ちゃんは、
暴力の重さが分からんくなっとった。
受験のストレスをめいっぱいウチにブツけてきた。
酷い暴力をいっぱい受けた。
家族で1番小さくて無力なウチは、そのストレスのブツけどころがどこにもなくて…
いっつもママに当たってしまっていた。
自由帳の丸々一ページにでっかく、「ママなんか死んじゃえ」って書いた。
ママの悪口しかかけなかった。理由は簡単。
お姉ちゃんとか父の悪口書いてバレたら、後が怖いから。
でもウチは、ママが世界で一番大好きだった。
お姉ちゃんの受験結果を発表する日がやってきた。
女学院は補欠、安田は合格、といった結果だった。
安田に受かったお祝いに、家族皆でお祝いすることになった。
その日は、ママがウチのコップを落として壊しちゃった。
ウチは泣きながら、「ママなんか大っ嫌い!死んじゃえっ!!」って言った。
ママは「ごめんね」って言って、静かにコップの破片を拾った。
ウチは不機嫌なまま、タクシーに乗ってお姉ちゃんのお祝いをする中華料理店に向かった。
その頃にはもうお母さんは笑顔で、うちも笑顔で、
「かんぱーい」って言って、ビールを飲もうとした。
その時、ママは泡を吹いて、唸りながら自分の顔を机の上に押し付けた。
ウチとお姉ちゃん、おばあちゃんは大パニックで救急車を呼んだ。
ママは病院に運ばれた。
意識不明で、重体。
ママは病気だった。
病名は、脳梗塞。
ウチはママに死ねって言ったことを、酷く後悔した。
ママが看護婦の人にオムツを替えてもらってた。
オムツには排泄物がついてた。
うちはそれを「汚い」って思ってしまった。
ママに家族全員で手紙を書いた。
父はママが倒れたことで、本当に反省して、手紙を書いてた。
ウチ等は家族全員で書いた手紙を泣きながら読み上げた。
お母さんの心電図が、父の手紙を読んだ時、大きく動いた。
・続く・

2010年8月20日金曜日

アキ

母のことを文にするのは人生で2回目だ。
一回目は・・小学校6年生の時の参観日の『家族について』で母のことについて書いた。
今日で2回目だ。私が小さい頃から母は精神的な病気で入退院を繰り返している。
『育児ノイローゼ』だとか『精神分裂症』だとか聞かされていた。
自分のことを『私はマリーアントワネット』だ。とも言っていた。
小学生の頃、『今日からこの家に帰ってこなくていい。』と捨てられた。
でも帰る所のない私は家へ帰った。
ドアを叩いても出てくれない。小さなボロいアパートだ。中に居るのはわかる。
夜遅くになり、電気が点いた時にドアを叩くと何もなかったように中に入れてくれた。
その月に入院が決まった。
入院する直前には、家族のこともわからなくなり、敵視されていた。
『どこか知らない場所に連れて行かれてたまるもんか!!』と・・。
収拾がつかないので、救急車で母を病院に連れて行った。
暴れていた。『殺されるっっ!!』とも叫んでいた。
小さいながらにも痛々しくて、涙が出た。
もう母に会えないんではないかと・・。
救急車に運ばれて行ってからの部屋はガランとしていた。
家はとても貧乏で父が家に帰って来なかったら食費すらなかった。
週に1,2度しか帰って来ない父。食事も貧相なものだった。
でも、病気の症状が出るまでの母はとても明るく振る舞い、『今日はお母さんお腹空いてないから、あんたらいっぱい食べ!!』と笑っていた。
家にお金がある時に見よう見まねで作らせてくれた、私の料理を残さず食べてくれた。
母がいなくては生きていけないとさえ思った。
なのに・・今、あなたのことを恥じている自分がいる。
なぜ、あなたの子に生まれたのだろう?
なぜ、自慢できる母じゃないのだろう?
なぜ、あなたは病気なの?
なぜ、自分は捨てられたのだろう・・と。
もう何年、喋ってないだろう。
今は社会復帰もできない母。
私の名前を覚えているだろうか?
顔を見て『あき』と呼んでくれるだろうか?
あの一番最初にあなたのことを書いた時には、あなたが居たかどうかは覚えてません。
でも、あなたへの手紙を書いていたのに泣いて読めなくて先生に読んでもらったことは覚えている。
本当に大好きだった母。私はまだ、あなたにかける言葉が見つかりません・・。
なんて呼べばいいのかもわかりません。
あなたは私のこと、覚えてますか?

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