2009年12月25日金曜日

トム&ジェリー 

ジェリーが大人になった頃トムはもうこの世にいませんでした。
トムは自分の命の終わりがすぐ傍まで来ているのを知ったとき、
こっそりジェリーの前から姿を消しました。

ジェリーの前で弱って涙もろくなった自分を見せたくなかったのです。
トムはジェリーの心の中ではずっと喧嘩相手として生きつづけたかったのです。

トムがいなくなったのに気づいたときジェリーは悲しみはしませんでしたが、
退屈になるなと思いました。トムとの喧嘩は最高にスリルのあるゲームでしたから。

胸の奥が不思議にチクチクはするのですが、
それが何なのか、ジェリーにはよくはわかりませんでした。

トムの願い通り、ジェリーの心の中でトムはいつまでも仲の悪い喧嘩相手でした。
そんなある日ジェリーの前に一匹の猫が現れました。トムよりのろまで体も小さい猫です。

喧嘩相手のトムがいなくなって寂しかったジェリーは、
今度はこの猫を喧嘩相手にしようと考えました。

そこでジェリーは、穴のあいた三角チーズが仕掛けられたねずみ取りを利用して、
その猫に罠をかけることにしました。
いつもトムにしていたように。
ジェリーは物陰に隠れて、
ねずみを求めて猫がねずみ取りの近くに来るのを待っていました。
そして思惑通り猫が罠に向かって近づいてきます。

ジェリーはしめしめと思いました。
いつものように、自分がねずみ取りにひっかかるふりをして、
逆に猫をねずみ取りにかけてやるんだ。
うふふ。

手か尻尾を挟んだ猫の飛び上がる姿が頭に浮かび愉快です。
でも、その猫はトムではありません。

猫はチーズの近くまで来たとき、
ジェリーが出てくるより早く美味しそうなねずみの匂いに気づき、
目にもとまらぬ速さで隠れていたジェリーに襲いかかってきました。
ジェリーはいつもトムから逃げていたように逃げましたが、

トムよりのろまなはずの猫にすぐに追いつかれてしまい、
体をガブリと噛まれました。
ジェリーも噛みつき返しましたが、
トムより体が小さいはずの猫は平気です。

血まみれのジェリーは薄れ行く意識の中で、
本当は鼠が猫と喧嘩して勝てるわけがないことと、
いつもトムはジェリーに「してやられた」ふりをして、
わざとジェリーを捕まえないでいたことを、
そのとき始めて知ったのです。

トムの大きな優しさと友情に気づいたのです。

そしてトムがいなくなった時の
胸の奥のチクチクの正体にも気づきました。
かけがえのない友を無くした悲しみでした。

ジェリーの魂が体を抜けた時、
空の上には優しく微笑みジェリーを待っているトムがいました。

「また喧嘩ができるね」
「のぞむところさ、今度こそは捕まえてやるぞ」

2009年12月21日月曜日

還暦を迎えた母

786 おさかなくわえた名無しさん 2007/01/29(月) 00:39:04 ID:Qg9+Mz9u
還暦を迎えた母に誕生日おめでとうメールを送った返信。

件名:ありがとう
本文:ついに60代になってしまいました。
思い返せば、30代は小さなあなた方を夢中で見つめていました。
40代は、若々しく成長していくあなた方に見とれていました。
50代は頼もしく輝いていくあなた方に目を奪われていました。
あなた方がみんな素敵な伴侶を見つけ、巣立って行ってから迎えた60代は
20代の頃に戻ってもう一度お父さんと見つめ合おうと思います。


うっかり感動してしまった。

2009年12月19日土曜日

祖母の手紙

彼との結婚を私(25歳)の父と母は猛反対していました。
彼は昔両親を亡くして、祖父母に育てられていました。
そして4年前祖父が亡くなり、彼は32歳になる今まで84歳の祖母と二人暮しでした。
それが反対の理由でした。
「何も結婚してすぐに介護が目の前にあるような結婚をする事はない」と。
結婚を申し込みにきた彼と彼の祖母ににもそう言い放ったんです。
その2日後でした。
彼の祖母が置手紙を残していなくなりました。
仕事から帰った彼からの電話で、私達は必死で探しました。
探して探して探して
空が明るくなりかけた頃、彼の祖父の眠るお墓の前に座りこんでいる祖母を見つけました。
歳も歳だったので衰弱し、そのまま即入院になりました。
その事がきっかけで、私の両親も私達の結婚を許してくれ
結婚式はせず、すぐに籍だけをいれました。
もう10年近く前の話です。
祖母は入院後1ヶ月ほどで亡くなりました。
その時の手紙です。

●●へ(彼の名前)

ばあちゃんは本当に貴方がかわいかった。
貴方のお父さんとお母さんが死んだ時
私のこの先の人生は貴方の為に使っていこうと心に誓いました。
ばあちゃんは年であるしお金もない
何も何も持ってはおりません。
貴方への愛情だけです。
そして貴方はばあちゃんの事をとてもとても大切にしてくれた
とてもとても良い子に育ってくれました
そして人生の伴侶となるべき相手を見付けました。
でもばあちゃんがそれをじゃましているんだね。
幸せになってください。
ばあちゃんは貴方を育てる事が出来た事がとてもうれしいです。
とてもとても幸せでした。
妙子ちゃん(私)と、どうかどうか幸せになってください。

コンビニ強盗

何年か前、俺の親戚の叔父家族がやってるコンビニにも
客が居るときに強盗入ったことがある。ちょうど叔父がレジ番やってた時。

買い物を精算するふりをして、果物ナイフを向けられたらしいんだが、
叔父はすぐそばに新聞紙を筒状に丸めて、ガムテープでグルグル巻いて止めたものを常備してたんで、
即座にそれをひっつかんでレジ台を強烈に一発「バンっ!」って叩いて、>>1の人と同じようなことを大声で叫んだらしい。

んで強盗に「んな金あるわけねぇ!」と威嚇してる流れで、いかに自分たちフランチャイズ・オーナーの取り分が少ないか、
本部に搾取されてるか、いかに自分たち家族が倹約に倹約を重ねて細々と生活しているかをぶちまけるというか愚痴が入り出したら、
叔父は涙ながらになっちゃって、最後は強盗に遭った恐怖とかどうでもよくなって、
厳しいコンビニオーナーの生活がこんなに苦しいのに、さらに強盗かよみたいな状況に情けなくなって号泣。

犯人も生活苦だったらしく、もらい泣きしながら「申しわけありません」と深謝して、叔父に頼んで警察呼んでもらったそうな。
犯人逮捕まで店内に居た人たちも事情聴取とかされたそうだけど、叔父の話を聞いたことで、
みんな結構大量に買い物をしてくれたらしい。

犯人のほうはとりあえず未遂ってことと自首と同じってことと、何の縁か叔父が所轄の担当さんに何度か電話したり手紙で
「彼は立ち直れるから、刑務所には送らないでやってくれ」って頼んであげたこともあってか、
犯人は執行猶予と保護観察付きの判決もらって社会復帰。
釈放の足で叔父の店にやってきて深々と謝罪し、担当さんから聞かされた叔父の嘆願のことに感謝したそうな。

叔父は、その元犯人にうちでバイトしないかって声かけたけど、かれは感謝した上で断って、
自力で更生するって約束して実家のほうに身を寄せたらしい。
で、何年かして彼がまた叔父を「私のこと覚えてますか?」と訪ねてきた。
郷里で小さいカレー屋だかを起こして、なんとかやってるらしい。今でも彼から毎年、歳暮中元と年賀状は届くそうだ。
叔父の家族では、「こんなことって本当にあるんだねぇ」って、今でも話すらしい。

以上、まるで「深イイ話し」みたいに出来すぎた話しだけど、ぜんぶ俺が今日作った創作話しです。

2009年12月17日木曜日

お地蔵さん

69:名無しさん@十周年2009/12/16(水) 21:53:41 ID:UtpwrUld0 (1)
近所にでかい桜があって、うちの土地の前が通り道。
毎年花見帰りの奴らがうちにゴミを捨てていくから、今年からちっちゃいお地蔵さんを置いてみた。

ゴミが綺麗さっぱりなくなった。
子供が拝むからか、何人か外国人観光客が行き帰りに拝んでいた。
週の頭には、誰がしてくれたのか、赤いちゃんちゃんこが着せてあった。
それからは、お願い事の名刺がお地蔵さんの前に置かれるようになった。
とうとう今日は近所のおばあちゃんがお花をお供え。

2000円のお地蔵さんが、俺の知らない間にどんどん出世していっている。
悔しいから、お地蔵さんの待機場所を雨よけのトタン屋根から
木造のインチキお社に改造してやった。

2009年12月16日水曜日

カーチャン

J( 'ー`)し たけしへげんきですか。いまめーるしてます

(`Д)   うるさい死ね メールすんな殺すぞ

J( 'ー`)し ごめんね。おかあさんはじめてめーるしたから、ごめんね

(`Д)   うるさいくたばれ、メールすんな

J( 'ー`)し お金ふりこんでおきました。たいせつにつかってね 食事はしていますか?

(`Д)   死ねくそ女

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
            o
__        ゚ 
 母 |
 の |
 墓 |  ∴  ('A`)カーチャン..........
──┐ ∀  << )
500 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿

2009年12月15日火曜日

炊き込みご飯

俺は小学生の頃に母の作った炊き込みご飯が大好物だった。
特にそれを口に出して言った事は無かったけど母は判っていて
誕生日や何かの記念日には我が家の夕食は必ず炊き込みご飯だった。

高校生位になるとさすがに「又かよっ!」と思う様になっていたのだが
家を離れるようになっても、たまに実家に帰ると待っていたのは母の
「炊き込みご飯作ったよ。沢山食べなさい」の言葉だった・・・

会社に電話が来て慌てて向かった病室には既に近くの親戚が集まっていた。
モルヒネを打たれ意識の無い母の手を握り締めると母の口が動いた。
何かを俺に言いたそうだった。母の口元に耳を近づけると
「炊きこ・・・たよ。たくさ・・・・さい」と消え入りそうな声で言っていた。
それが最後の言葉だった。

「ママの作ったスパゲッティー大好き!」口の周りを赤くして
スパゲッティーを食べる娘とそれを幸せそうな目で見つめる妻を見る度に
母の炊き込みご飯が食べたくなる

うざいメール

色々な事が重なって、
友達に

「死にたい。こんな自分嫌い」

とうざいメールした。
夜中だったし絶対寝てると思ったら五分後、

「何があったか知らないけど、私の好きな人の事を嫌いとか言わないでくれる?」

と返事がきた。
まじめに嬉しくて涙がでた

2009年12月14日月曜日

お母さんの気持ち

J( 'ー`)し
自分が多少つらくても、腰痛くても頭痛くても、子供が元気にしてくれてるのがすごく嬉しいの。
元気そうな子供の姿見たり声聞いてるとね、本当に嬉しいの。
別に感謝してくれたり、無理に気にかけてくれたりしなくていいの。
苦労して育てた自分の子供が、自分の足で立って人生歩んでくれることが、何より嬉しい。

悩んでる、行き詰ってる子供を見るのは本当につらい。
何とかしてあげたい、どうにかしてあげたいんだけど、私じゃ何もしてあげられない。
余計な口出ししちゃって、後悔する事もある。
アナタにはアナタの考えがちゃんとあるのにね。
でも、見守るだけしかできないのはつらい。
苦しんでる姿見ると、心が張り裂けそうになる。
親なのに、何でこんなにも、何もしてあげられないんだろうって、情けなくなるよ。
700 名前: 2/2 [sage] 投稿日: 2009/11/21(土) 16:53:56.08 ID:SDb4Ez+e0
今楽しいアナタへ。アナタが楽しく生きているという事実が、お母さんの生きがいです。

今苦しいアナタへ。何もしてあげられなくてご免なさい。頼りなくて本当にごめんなさい。
でも、つらくても生き抜いてください。
お願いだから、自暴自棄になったり、自分を卑下したりしないでください。
生きる場所は必ずあります。生きる道は必ずあります。
アナタが、もがいて、もがいて。そこに辿り着くことを毎日祈っています。
私にできることが何かあるなら、どうか言ってください。
誇大表現でも何でもありません。
アナタが強く生きてくれることが、お母さんは自分の命よりも
大事です。

2009年12月13日日曜日

姉妹の盃

604 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:2008/07/29(火) 13:06:13 ID:NJRpOhWp
小学校6年くらいの時の事
親友と、先生の資料整理の手伝いをしていた時、親友が「アッ」と小さく叫んだのでそちらを見たら、
名簿の私の名前の後ろに『養女』と書いてあった。

その時まで実の両親だと思っていたので心底衝撃を受けた。
帰り道、どんな顔で家に帰っていいか分からず、公園のブランコに座って立てなくなった私に、
親友はずっと付き添っていてくれ、
「よし、じゃあ私と姉妹の盃を交そう」とか言って、カバンからメロンのアイスの容器
(メロンの形のやつ)を出して、水道の水をくんで飲んだ。
一体何のテレビを見たのか、「盃の契りは血のつながりより強いんだよっ」なんてメロンのカップ片手に言う親友がおかしくて、思わず泣きながら笑いあった。

十数年たって私が結婚する事になり、結婚直前に二人で酒でも飲む事にした。
『あの時はありがとう』と、驚かそうと思って、あの時もらったメロンのカップをカバンにこっそり忍ばせて飲んでたら、突然親友がポロポロ泣き出して

「あの時、あの時、気付かせてしまってごめんね」と。

『養女』の文字を隠さなかった事をずっとずっと悔やんでいたと泣いた。

そんな事、反抗期に親に反発しそうな時も、進学の学費面で親に言えなくて悩んだ時も、
机の上でメロンのカップが見守っていてくれたから、あなたがいてくれたからやってこれたんだと伝えたかったのに、

ダーダー涙流しながらダミ声でドラえもんのように「ごれ゛ぇ」とメロンのカップを出すしか
できなかった。
親友もダーダー涙流しながら「あ゛ぞれ゛ぇ!」と言って、お互い笑って泣いて、酒を酌んだ。
もちろんメロンのカップで。
もうすぐ親友の結婚式があるので思い出した

2009年12月12日土曜日

チョーさんの手紙

16 名前:水先案名無い人 投稿日:2004/03/21(日) 02:24 ID:ykGfugCI
志村へ
                                                          
この手紙をもって俺のコメディアンとしての最後の仕事とする。
まず、俺の芸能人生を解明するために、DVDを買うようお願いしたい。
以下に、コントについての愚見を述べる。
コントを考える際、第一選択はあくまで「笑いを取れば勝ち」という考えは今も変わらない。
しかしながら、現実には若手芸人の多くがそうであるように、他人をバカにして笑いを取ったり、
素人にツッコミを入れるだけで内輪受けに走っている事例がしばしば見受けられる。
その場合には、企画段階から綿密な計算と準備が必要となるが、残念ながら未だ満足のいくコントには至っていない。
これからのコントの復活は、綿密な企画立案、それとライブの復活にかかっている。
俺は、志村がその一翼を担える数少ない芸人であると信じている。
能力を持った者には、それを正しく行使する責務がある。
志村にはコントの発展に挑んでもらいたい。
遠くない未来に、素人いじりや他人をこき下ろすコメディがこの世からなくなることを信じている。
ひいては、俺のネタを研究した後、計算された笑いの一石として役立てて欲しい。
リーダーは活ける師なり。
なお、最後に、 お笑い芸人でありながら、多数の人を泣かせて旅立ったことを、心より恥じる。

                                           いかりや長介

2009年12月11日金曜日

チンピラ

334:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2009/07/10(金) 10:05:13 .60 ID:kAWElravO
和む話か微妙だしコピペでも無いが昨日あった話

俺普段原付きで移動してんだけど
いつものように信号待ちしてる車のわきをタラタラはしってた
んで信号青になったのに車が一行に動こうとしない
なんかあったんなか?位に思いながら列の先頭までいくと
横断歩道の真ん中で
雪駄、タンパン、派手な柄シャツ、茶髪坊主でサングラスかけてふてぶてしくタバコふかしながらチャリまたがってるチンピラ代表みたいなやつがいた
うわぁ。たちワリィなと注意しようと思ったら
腰の曲がった小柄なおばあちゃんが乳母車みたいなの押しながらヨチヨチ横断歩道渡ってた。
おばあちゃんが渡りきったらそのチンピラが止まってくれてた車の運転手にメンチ切ってどっか行った。

なんかすごくいい気分になった。

2009年12月9日水曜日

女子高生

389 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:2007/09/06(木) 21:14:00 ID:Wyiyea0B
人通りが多い道で信号待ちしてたら、自分の斜め前に立ってる女子高生2人組に目の不自由なおばあちゃんが追突した。
ぶつかられた女子高生は「ああん?」みたいな顔で振り返った。
でもすぐにおばあちゃんの目が不自由なことに気づいたみたいだった(白い杖持ってたから)。
信号が青になり、たくさんの人が横断歩道を渡ってきた。
女子高生2人はちょっと腕を広げて押し黙り、SPのようにおばあちゃんの前両脇を歩き出した。
渡ってくる人達がぶつからないように、おばあちゃんの歩幅に合わせて超ゆっくりと。
すぐ後ろを歩いてるおばあちゃんをチラチラ振り返りながら(おばあちゃんは気づいてない)。
人通りが少なくなると、女子高生達は自分達のペースでスタスタ歩き出した。
学校での出来事を話しながらガハガハ笑ってた。
 

2009年12月8日火曜日

ホームセンターでの出来事

940 :ほんわか名無しさん :2007/02/09(金) 00:16:33 0
くそったれホームセンターにいた時の出来事

クリスマスイブのある朝
サービスカウンターの時計売り場でボロボロの時計の電池交換を依頼された。
持ってきたの老夫婦だった。

丁寧な口調で「この時計が動かなくなってしまって、
電池交換して動けばいいんですが・・お願いします。」

このくそ忙しい時にこんな時計の電池交換かよ!
買った方がはえーよ!!と思っていた。
電池を機会で測定すると十分電池はある・・ってかこれぶっ壊れてんな・・

老夫婦を店内放送で呼ぶと事情を説明した。
するとおじいさんが
「おまえじゃあ買ってやるよ。時計ないとお前病院の帰りのバス・・」というと
おばぁさんが「じゃあお花買えないねぇ・・」
おじいさんが「花は今度にしよう・・またお花安い日やるよねお兄さん?これください」
おばぁさん「そんな高いのじゃなくても!・・」

3780円の時計だった・・・
俺「ここでしていかれますか・・」
おじいさん「していったらいいよ」うなずくおばぁさん

わざと時計を落として、俺「すみません!こんな傷ついた時計は正規の値段では売れません500円でいいです。」
おじいさん「だいじょぶだよ、ぜんぜんきずなんてついてない」
といいはって5000円札を出してくる。
傷がついてねーのは視力1・5の俺が一番知ってる!いうとうりにしろ!

チェルノブイリ

746:本当にあった怖い名無し 2009/06/09(火) 21:18:26 ID:iJPJ+Dww0[sage]
チェルノブイリ事故は、メーデー前の金曜日深夜に起きた。

制御棒を完全に入れれば、炉心は止まる。
だが、中途半端に入れれば、残った核反応で
発電できるのではないか? という実験中だった。

#安全装置は切られていた。
金曜日の深夜。技師や作業員たちは、
「この仕事を終えれば休める!」と意気軒昂だった。

実験は暴走という結果を生み、休みは潰れた。
災厄。炉心融解、メルトダウン。

炉心直下には、核反応を制御するための冷却水プールがあった。
メルトダウンが進めば、そのプールの水で水蒸気爆発が起きるだろう。
どうしたか?

3人の男たちが
汚染された水の中を泳いでいって、プールの栓を抜いた。
彼らのことは誰も知らない。


アンドレイ・アナネンコ  ヴァレリイ・ベズパロフ  ポリス・バラノフ


彼らは、ひどい事故が「よりひどい事故」になることを防いだ。
ヨーロッパ全域が「死の森」になることを防いだ3人。
彼らのその後は、あえて語らない。

2009年12月7日月曜日

野球

幼い頃に父が亡くなり母は再婚もせずに俺を育ててくれた。
学もなく、技術もなかった 母は、個人商店の手伝いみたいな仕事で
生計を立てていた。それでも当時住んでいた
土地は、まだ人情が残っていたので、何とか母子二人で
質素に暮らしていけた。

娯楽をする余裕なんてなく、日曜日は母の手作りの弁当を持って、
近所の河原とかに 遊びに行っていた。給料をもらった次の日曜日には、
クリームパンとコーラを買ってくれた。

ある日、母が勤め先からプロ野球のチケットを2枚もらってきた。
俺は生まれて初めての プロ野球観戦に興奮し、母はいつもより少しだけ
豪華な弁当を作ってくれた。

野球場に着き、チケットを見せて入ろうとすると、係員に止められた。
母がもらったのは 招待券ではなく優待券だった。
チケット売り場で一人1000円ずつ払ってチケットを買わ なければ
いけないと言われ、帰りの電車賃くらいしか持っていなかった俺たちは
外の ベンチで弁当を食べて帰った。
電車の中で無言の母に「楽しかったよ」と言ったら、
母は「母ちゃん、バカでごめんね」と言って涙を少しこぼした。

俺は母につらい思いをさせた貧乏と無学がとことん嫌になって、
一生懸命に勉強した。 新聞奨学生として大学まで進み、
いっぱしの社会人になった。結婚もして、母に孫を見せて やることもできた。

そんな母が去年の暮れに亡くなった。死ぬ前に一度だけ目を覚まし、
思い出したように 「野球、ごめんね」と言った。
俺は「楽しかったよ」と言おうとしたが、最後まで声にならなかった

2009年12月3日木曜日

オカンとドクちゃん

|               |
|               |
|         J( 'ー`)し.|
|            ( )  .|          ( 'A`)
|       幸    | |   |       辛  ノ( ヘヘ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|               |
|               |
|        J( 'ー`)し .|
|         o一o    |          ( 'A`)
|       辛  〈 〈    |       辛   ノ( ヘヘ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|               |
|               |
|               | 'ー,`)し
|               |o一o       ( 'A`)
|       辛       | U     辛   ノ( ヘヘ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|               |
|               |
|         J( 'ー`)し |
|           ( )  | ミ       Σ ('A` )
|       辛   | レ  |       幸  ノ( ヘヘ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|               |
|               |
|  ガンバルノヨ ドクチャン  |         ヽ(゚∀゚)ノ
|         J( 'ー`)し |            ( )
|       辛 ノ( ヘヘ   |       幸    | |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

姉ちゃん

177:ロウバイ(千葉県) 08/02(日) 19:02 KQ31jYcO
ソファーで寝てた俺

何となく目が醒めたら

横で姉が(´・ω・`)こんな顔して見てた。

俺『Σ(゚Д゚)どうした?』

姉『あのね、○○君の背中の所にお姉ちゃんの携帯があるの』

俺『あ、ごめん。ハイ』

姉『ありがとう』

近くでその様子を見ていた母が言うには、熟睡してる俺を
起こすに起こせず一時間ほど眺めていたらしい。
何度か鳴ってたらしいが気付かなかった。

ごめんな、姉ちゃん。

2009年12月2日水曜日

兄貴

266 名前:名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/09(日) 01:41:33

三人兄弟の末っ子だったオレ。オレが消防だった時に兄貴が高3だった。
車好きの兄貴は自動車会社に就職したくて大学に行きたかったみたいけど、
頭は決してよく無かったので私立の大学にしかいける大学がなった。兄貴は親父に大学に行きたいと言ったが、
親父は『家には金が無い。残りの兄弟もいるし、我慢してくれ。すまん。』と言った。
影でその話を聞いていた俺は、それまで自分の家が貧乏だと思ってはなかったので驚いた。
話を承知した兄貴は、肩を揺らして泣いていた。親父も自分が不甲斐無いのか泣いていた。
その後、兄貴は高卒で就職した。数年後、同様に二番目の兄貴も高卒で就職した。
そして、俺が高3になった時、俺も大学に行きたいと思っていた。
自分でもいうのはなんだが、学校での成績はかなりいいほうだった。
しかし、親兄弟には迷惑はかけれないと進学は諦めていた。迷惑をかけないように、
『オレも高校卒業したら就職するから。』って家族にいつも言っていた。
そんな時、2人の兄貴が『お前は安心して好きな道を歩め。大学に行きたいなら、はっきり言え。オレがどうにかしてやる。
お前は頭もいいし、オレの出来なかった夢を叶えてくれ。』と言ってくれた。嬉しかった。大声で泣いた。

数年後、オレは無事に大学を卒業、兄貴の夢でありオレの夢であった自動車会社に就職することができた。
兄貴は喜んでくれてはいたが、さぞ悔しかっただろうと思う。申し訳ないことをしたと思っている。
面と向かって言うのは照れるので、ここで言わせてもらいたい。
兄貴、ありがとう。いつか、最高の車を造るからな。

2009年12月1日火曜日

ビル・ゲイツの言葉

ビル・ゲイツがあるハイスクールでスピーチをした、
「学校では教えてくれない人生に役立つ11のルール」というものが
インターネットで出回っています。

1、人生は公平ではない。それに慣れよ。
2、世界は君の自尊心を気にかけてはくれない。
  君の気分に関係なく世界は君が仕事を終わらせることを期待している。
3、高校を出てすぐ6万ドルの年収を稼ぎはしない。携帯電話(当時は高かった)
  を持った副社長にもならない。自分で両方を稼ぎ出すまでは。
4、先生が厳しすぎると思うなら、上司を持ってみろ。
5、ハンバーガーを引っくり返すということは沽券にかかわることではない。
  君たちの祖父母はハンバーガーを引っくり返すことを別の表現を使った。
  それはチャンスと呼ばれた。
6、君が失敗したらそれは両親のせいではない。文句を言わずに学べ。
7、君らが生まれる前は、君らの両親は今のように退屈な人たちではなかった。
  そんな風になったのは、君らのために支払いをし、服を洗い、君らがどんなに
  イケてるか、という自慢を聞いているうちにそうなったのだ。親の時代から生存
  する寄生虫から森を守る前に、自分の洋服ダンスのダニ駆除から始めよう。
8、学校は勝者・敗者を決めなくなったかもしれないが、人生は違う。
  学校によっては君が落ちこぼれないようにしてくれたり、正しい答えが導き
  出せるまで、何度でも機会をくれる。実際の人生とは全く似ても似つかない。
9、人生は学期ごとに分けられていない。夏休みは無いし、ほとんどの雇用主は
  君が自分を見出すことに興味を持たない。それは自分の時間にやれ。
10、テレビは本当の人生ではない。現実では、人は喫茶店にいつまでも
   居られるわけはなく、仕事に行かなくてはいけないのだ。
11、オタクには親切にしよう。彼らの下で働く可能性が高い。

から揚げ

313 名前:まい 投稿日:2000/04/04(火) 16:57
幼稚園の頃お絵描きの時間に先生が
「大好きなものを描いてね」といういやに抽象的なテーマをだした。

みんなは、「おかあさん」とか「愛犬」とか「お花」を描いていたが、
私は画用紙一杯に茶色の丸を何個も何個も描いた。

先生の「これ、なあに?」の問いに
「とりのからあげ!」と元気に答えた私。
教室内は大爆笑、「だって、好きなものって言ったやん」と子供心が傷ついた。

その絵を、返却され家に持って帰る事になり
「お母さんも笑うかなあ、」と心配になったが、お迎えに来た母に

「好きなもの、から揚げ描いたら先生も皆も笑ってん…」
ここまで話すのが精一杯で大泣きしてしまった。

母は満面の笑みを湛え「そっかあ!」とその足ですぐスーパーに行き、
鶏肉をいっぱい買って来てその日の夜と、次の日のお弁当にから揚げを入れてくれた。

年子の弟がいたので、「お姉ちゃん」というプレッシャーがあったのと、
食が細かったので、「これが好き」とか「これ食べたい」とかあまり言わない子供だったので
母はすごくうれしかったみたい。

父も「この子は酒飲みになるぞお」とうれしそうにから揚げをたべていた。
期待を裏切らず酒飲みになり、あてはいつもから揚げ、
身長も171センチと大きく元気に育った。

「から揚げの絵」は、いまも大切に実家に保管してある。
おかあさん、ありがとう。

2009年11月29日日曜日

信じる

718 名前:名無しさん@どーでもいいことだが。[sage] 投稿日:03/11/19 00:38 ID:pBRiaqPu
 もうダメダヨ。すさみを通り越してもうダメダヨ。助けて。
 嫌いなんだよ、嫌いなんだよ、自分が嫌いなんだよ。
 なんでこんな人間なんだ。どうしてこうなったんだ。
 いつになったら他人を信じることができるんだ?
 なあ、なあ、信じるってどうやったんだっけ。
 教えてくれよ。誰か。誰か
 ひとりはもう嫌だ。誰か、なあ誰か。

 
719 名前:名無しさん@どーでもいいことだが。[sage] 投稿日:03/11/19 00:53 ID:OWjpKQ//
 >718
 呼んだ?(・∀・)ノ

 信じるってのは、こうやってカキコしたら
 誰か答えてくれるだろうって思った、今のその気持ちだろう。

お母さんは大丈夫

バスの中で、10歳ちょっとくらい?の子供と30代くらいの美人なお姉さん
(最初お母さんかと思ったけど違った)
子供が椅子の背凭れ睨みながらボタボタ泣いてる
その背中をお姉さんがトントンってたたきながら

姉「大丈夫。大丈夫。お母さんは大丈夫。大丈夫」
って言い続けてる
あんまり低い声で真剣な顔で言ってて、事情がありそうだったんでバスの中がシーンとしてた

子「お、」
姉「大丈夫」
子「俺どうなんの」
姉「お母さんは大丈夫」
子「ダメかも、もうダメかも、だって皆、ダメって言ってたし、」
姉「大丈夫」
子「お母さん死ぬ?俺一人になる?」
姉「どうしようもなくなったらおばちゃんがお前一人くらい育て上げてやる。
  だからお母さんは大丈夫ってだけ考えときなさい」
子「俺居たら余計嫁に行けなくなるよ」
姉「うっさい。居なくても行けてないんだから居たって一緒です。お母さんは?」
子「……」
姉「お母さんは?」
子「大丈夫」
姉「うん」

二人がバス降りるとき()総合病院前だった、
運転手さんが「お母さんは大丈夫」って言ってあげたのを期に
バスの皆が「大丈夫!」「絶対大丈夫!」って言ってた
私も言ったし、お母さんがどうしたのかわかんないけど
大丈夫であってほしいと思った

2009年11月27日金曜日

駐屯地祭

2年前旅行先での駐屯地祭で例によって変な団体が来て私はやーな気分。
その集団に向かって一人の女子高生とおぼしき少女が向かっていく。

少女「あんたら地元の人間か?」
団体「私達は全国から集まった市民団体で・・・云々」
少女「で、何しにきたんや?」
団体「憲法違反である自衛隊賛美につながる・・・云々」
少女「私は神戸の人間や。はるばる電車のって何しにここまで来たかわかるか?」
団体「・・・・?」
少女「地震で埋もれた家族を助けてくれたのはここの部隊の人や。
   寒い中ご飯作ってくれて、風呂も沸かしてくれて
   夜は夜で槍持ってパトロールしてくれたのもここの部隊の人や。
   私は、その人たちにお礼を言いに来たんや。
   あんたらにわかるか?
   消防車が来ても通り過ぎるだけの絶望感が。
   でもここの人らは歩いて来てくれはったんや・・・・」


最初、怒鳴り散らすように話し始めた少女は次第に涙声に変わっていった。
あまりにも印象的だったのではっきり覚えている。
団体は撤退。
彼女は門をくぐった時に守衛さんが彼女に社交辞令の軽い敬礼ではなく直立不動のまま敬礼していた。

悲しい事件

◇もう生きられへん。ここで終わりやで そうか。一緒やで。わしの子や
認知症の母親(86)の介護で生活苦に陥り、
相談の上で殺害したとして承諾殺人などの罪に問われた
京都市伏見区の無職、片桐康晴被告(54)の初公判が19日
京都地裁=東尾龍一裁判官(54)=であった。
片桐被告が起訴事実を認めた後、検察側が片桐被告が献身的に介護しながら
失職などを経、追いつめられていく過程を詳述。
殺害時の2人のやりとりや、「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」
という供述も紹介。目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ
刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。
事件は今年2月1日朝、京都市伏見区の桂川河川敷で、車椅子の高齢女性と
片桐被告が倒れているのを通行人が発見。女性は当時86歳だった母で死亡。
片桐被告は首から血を流していたが、一命を取りとめた。

 検察側の冒頭陳述によると、片桐被告は両親と3人暮らしだったが、
95年に父が死亡。そのころから、母に認知症の症状が出始め、
1人で介護した。母は05年4月ごろから昼夜が逆転。徘徊(はいかい)で
警察に保護されるなど症状が進行した。
片桐被告は休職してデイケアを利用したが介護負担は軽減せず、
9月に退職。生活保護は、失業給付金などを理由に認められなかった。
 介護と両立する仕事は見つからず、12月に失業保険の給付がストップ。
カードローンの借り出しも限度額に達し、デイケア費やアパート代が払えなくなり
06年1月31日に心中を決意した。

「最後の親孝行に」。片桐被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し
2月1日早朝、同市伏見区の桂川河川敷の遊歩道で
「もう生きられへん。ここで終わりやで」などと言うと、
母は「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えた。
片桐被告が「すまんな」と謝ると、母は「こっちに来い」と呼び、
片桐被告が額を母の額にくっつけると、
母は「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言った。
この言葉を聞いて、片桐被告は殺害を決意。母の首を絞めて殺害し、
自分も包丁で首を切って自殺を図った。
冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を伸ばして上を向いていた。
肩を震わせ、眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。

裁判では検察官が、片桐被告が献身的な介護の末に、失職等を経て、
追いつめられていく 過程を供述。
殺害時の2人のやりとりや「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介。
陳述の最中に、検察官が涙で声を詰まらせるという異例の雰囲気の中で裁判は進行した。
目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、
法廷は静まり返った。
「痛ましく、悲しい事件だった。今後あなた自身は、生き抜いて、絶対に自分をあやめること
のないよう、母のことを祈り、母のためにも幸せに生きてください」
裁判官が最後にこう語りかけると、「ありがとうございました」と頭を下げた被告。
法廷には、傍聴人と検察官と、被告のすすり泣く声が響き、法廷は悲しみに包まれた。

2009年11月26日木曜日

ばあちゃん

1 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2009/11/10(火) 00:06:08.85 ID:F4Wqw+6X0
俺の母方のばあちゃん

いつもニコニコしていて、かわいかった。
生んだ子供は四姉妹。娘が全員嫁いだ後は長いこと老夫婦2人暮らしだった。
じいちゃんは20年前に亡くなり、そこから17年ほど1人暮らしだった。
ばあちゃんは3年前に亡くなった。92歳だった。
長い間1人で寂しかったと思う。けどいつもニコニコして、そんな事は一言も言わなかった。

火葬が終わり、親戚一同で遺品の整理をしている時に古い手紙の束が見つかった。
母たち--ばあちゃんの娘たち--は宛名を見て「戦時中の父さん(俺のじいちゃん)への手紙だ」と騒いでいた。
親戚一同でじいちゃんへのラブレターみたいなものだと思ってやいのやいのと冷やかした。
俺の母がそのうちの1通を音読し始めた。

「(じいちゃんの名前)さんへ。今日(俺のおばちゃんの名前)が風邪をひきました。
 豪雪で腰まで雪が積もり、電車も動かないので隣町(余裕で10キロ以上ある)まで背負って行きましたが
 お医者様はお休みでした。大事な娘を診てもらう事すら出来ないのでしょうか。
 このような戦争は早く終わって欲しいです。」

母さん、最後のほう、声かすれて読めなかった。親戚みんなも泣いてた。俺も泣いてた。
他の手紙も、全部、全部、娘--俺の母やおばさんたち--の事ばかりだった。
ばあちゃんが考えてたのは、ずーっと自分の子供の事だった。

俺は誓う。
もし俺の子供が風邪をひいたら、豪雪の中だろうと何十キロでも歩くと。
年を取ったらばあちゃんみたいな人間になると。


2 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2009/11/10(火) 00:07:19.11 ID:F4Wqw+6X0
俺の父方のばあちゃん

ばあちゃんは優しい。果てしなく優しい。
俺の一番古い記憶が、家の近くの駄菓子屋にばあちゃんが俺を背負って連れてってくれたこと。
自営業で休日なんてない仕事だった両親に代わって、俺の面倒をずっと見てくれた。
作ってくれる料理は独創性が溢れてる。カレーにちくわ入ってる。弁当に野沢菜入ってる。
小学生の頃、乳がんの可能性があるってんで片方の胸を除去した。今はそこはあばら骨に皮がかぶってるだけ。
中学、高校の時に戦争があった。貴重な青春は全て戦争に奪われた。
今ほど差別に敏感でない時代、ばあちゃんはきっと胸のことで辛い思いをしたと思う。

じいちゃんとは幼なじみだった。家が50メートルしか離れてなかった。
じいちゃんは戦争から帰って来た後に
「お前みたいなやつは俺くらいしか貰ってくれないだろうから傍にいろ」っていってばあちゃんを嫁にした。
そのじいちゃんは数年前に亡くなった。
葬式終わった後に、ばあちゃんに「寂しいかい」って聞いたら「寂しいわね」って涙ぐんでた。

ばあちゃんは80歳を越えているが畑仕事もする。ばあちゃんの畑で取れた野菜は死ぬほどうまい。
こないだばあちゃんが「山にきのこ取りにいこう」って言ったけど「熊が出るから危ない」って説得した。
そしたらばあちゃん
「もし熊が出たら俺が食われてる間にお前が逃げりゃええ」って笑いながら言った。

ばあちゃんは優しい。果てしなく優しい。
俺は誓う。
もし山で熊が出ても俺はばあちゃんを担いででも逃げると。
俺が年を取ったらばあちゃんみたいな人間になると。


5 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/11/10(火) 00:10:43.53 ID:tvApBO9k0
>>1まだネタある?

8 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2009/11/10(火) 00:12:34.15 ID:F4Wqw+6X0
>>5
ごめん、もうない。でも実話だよ。

皆のばあちゃんの話も聞きたい。
きっと俺のばあちゃんが特別なんじゃない。
皆のばあちゃんもきっと素晴らしいばあちゃんだから。
皆にとって特別な人だから。

おじいちゃん

御歳84になるおじいちゃんが言いました。
「僕はね、昔、まあ今もだけど。運動も勉学もロクにできなかった」
「友達もいないし。顔も悪い。いつもひとりぼっち」
「だから、死のうと思ったことがある」
「でも、死んでしまったら僕の葬式代がかかるだろう」
「役立たずの僕のためにそんな無駄なお金を使ってほしくなかったんだ」
「そこで僕は考えた。これ以上迷惑をかけないように今は死なないでおこう」
「生きて生きて、僕が死んで迷惑になる人たち皆死んでから、死のう。と」
「どこかの海か崖にでも身を投げて・・・ね」
「でもね、気付いたんだ。僕には両親がいる。兄弟がいる」
「兄弟はやがて結婚して子供を持った」
「僕も運良く結婚できて子供をもてた」
「僕が生きている以上、つながりが消えることはないんだ・・・ってね」
「そして、僕は僕の大事な妻のため、子供の為に今まで生きてきた」
「その、僕の大事な子供の子供が、君です」
「ありがとう、君がいるから僕は生きています」

病院で自傷による出血多量の手当てのため入院していた、僕に向かって。

それからしばらくして。
おじいちゃんは死にました。
葬式の会場で
「すまないねえ」
というおじいちゃんの声を、身内の者のほとんどが聞いたそうです。
僕も、聞きました。

もうすぐ月命日です。思い出したのでなんとなく。

2009年11月25日水曜日

くいだおれ人形





妹が8歳の誕生日、当時中学1年だった俺は妹に初めてプレゼントをすることに。
中学になって小遣いが多少上がったので。
よりによってあげたのが大阪名物食いだおれ人形。
以降事あるごとに「センスないね、まったく」「一体なにを考えていたんだ」となじるなじる。
もう何百回聞かされたことか。

それから10年後。
年末、ちょっとした部屋の模様替え兼大掃除をやったときに間違えてその人形を捨ててしまったと大騒ぎ。
その時点ではさすがに妹も人形のことで攻撃することはなくなり、俺もそんな人形のことなぞ
ほとんど忘れかけていたのでびっくりしました。
 「捨ててしまったものはしょうがないだろ」
と俺が言うと多少は納得したようでした。
そのまま俺は寝ました。

が。
翌朝起きて妹の部屋をふと見るとその食いだおれ人形が窓際に立っていたんです。
やっぱりあきらめきれなかったのか、夜中に懐中電灯を持ってごみ集積場で
探しまわったらしいです。
時は年末、深夜を過ぎた極寒。他の家も大掃除でごみ集積場はまさに山。
よくもまあ見つけたものです。
一体探し出したのは何時だったのか、妹は熟睡してました。

起きてから「あの人形、探し出したの?」と聞いてみると、一瞬返答に詰まった後

 「お兄ちゃんのセンスの悪さを証明する証拠だからね。
  こんなオイシイネタ、捨てられるわけないでしょ」

プロ野球観戦

幼い頃に父が亡くなり、母は再婚もせずに俺を育ててくれた。学もなく、技術もなかった
母は、個人商店の手伝いみたいな仕事で生計を立てていた。それでも当時住んでいた
土地は、まだ人情が残っていたので、何とか母子二人で質素に暮らしていけた。

娯楽をする余裕なんてなく、日曜日は母の手作りの弁当を持って、近所の河原とかに
遊びに行っていた。給料をもらった次の日曜日には、クリームパンとコーラを買ってくれた。

ある日、母が勤め先からプロ野球のチケットを2枚もらってきた。俺は生まれて初めての
プロ野球観戦に興奮し、母はいつもより少しだけ豪華な弁当を作ってくれた。

野球場に着き、チケットを見せて入ろうとすると、係員に止められた。母がもらったのは
招待券ではなく優待券だった。チケット売り場で一人1000円ずつ払ってチケットを買わ
なければいけないと言われ、帰りの電車賃くらいしか持っていなかった俺たちは、外の
ベンチで弁当を食べて帰った。電車の中で無言の母に「楽しかったよ」と言ったら、
母は「母ちゃん、バカでごめんね」と言って涙を少しこぼした。

俺は母につらい思いをさせた貧乏と無学がとことん嫌になって、一生懸命に勉強した。
新聞奨学生として大学まで進み、いっぱしの社会人になった。結婚もして、母に孫を見せて
やることもできた。

そんな母が去年の暮れに亡くなった。死ぬ前に一度だけ目を覚まし、思い出したように
「野球、ごめんね」と言った。俺は「楽しかったよ」と言おうとしたが、最後まで声にならなかった。

どっちが好き?

息子が大好きなお饅頭食べてるとき、パパとママどっちが好きと聞いたら少し考えてから
お饅頭2つに割って「どっちが美味しい?」と俺に聞いた。
まじに一休さんの生まれ変わりかもしれない。

2009年11月24日火曜日

阪急電車

153 名前:名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/27(木) 02:25:07 ID:NjfrFqNQ0
阪神・淡路大地震のあと、阪急電車の復旧を沿線の人々は待ち望んでいた。うちもその一軒。
夜を徹して行われる作業、騒音や振動をこらえてくださいと、電鉄会社の人が頭を下げに来た。
「何を言ってるんだ?我慢するに決まってるじゃないか。それよりも一刻も早い復旧を。」
うちも含めて、沿線の人々はみなそう言って、電鉄会社の人を励ました。

阪急は国の補助も受けず、少しづつ復旧・部分開業していった。
そして最後に残された西宮北口?夙川間の高架部分の再開によって、
ついに神戸本線は全通した。
再開の日に、もちろん漏れも乗りに行った。神戸で逝った友のもとへ行くために。
運転台の後ろは人だかりだった。みな静かに鉄道の再開の喜びをかみ締めているようすだった。

夙川を渡るそのとき、川の土手に近所の幼稚園の園児たちが立ち並んでいるのが目に飛び込んできた。
手書きの横断幕を持って・・・。

    「あ り が と う  は ん き ゅ う で ん し ゃ」

運転手が普段ならしないはずのそこで敬礼をした。
そして大きく「出発進行!」と声を上げた。
その声は涙声になっていた。漏れも泣けた。

ときよ、上越新幹線よ、もまいを待っている人々がいる。
復興のために、そして人と人をつなぐために、よみがえれ、不死鳥のごとく。

電車

545 :名無しの心子知らず :2006/10/10(火) 02:16:56 ID:WlIe5+Hj
6歳娘の手を引き0歳娘を抱いて電車に乗った。
一駅で降りる予定だったので、初めから座る気は毛頭なく、
乗車予定の窓際に立って下車スタンバイOK。のはずが…。

なにやら近くの座席でガヤガヤと話し声がしたと思ったら、
座っていた5人の中学男子が全員立ち上がって席を譲ってくれた。
すぐ降りるのにどうしようと思ったけど、あんまりにも嬉しくて、
お礼を言って座らせてもらった。

男子5名が座っていた座席は私たちには広すぎて、
他の人も座らないし、スペースがが余りすぎて異様な光景に。
愛想のいい0歳娘は男子たちに向けてニコニコ。
男子たちもなんだかニコニコ。

お礼を言って降りてから、6歳娘が、
「お兄ちゃんたち優しかったね~すぐ降りるけど、
せっかく言ってくれたから座らないとだめだとおもったよ」
などどませたことを言って吹き出した。

中学男子たちも、6歳娘も、0歳娘も、
みんなみんな可愛すぎて可愛すぎて幸せでたまりませんでした。
ありがとう。


母のお弁当

50 :愛のVIP戦士 [sage] :2007/02/17(土) 12:57:28.49 ID:73KRyxHp0
私の母は昔から体が弱くて、それが理由かは知らないが、
母の作る弁当はお世辞にも華やかとは言えない質素で見映えの悪い物ばかりだった。
友達に見られるのが恥ずかしくて毎日食堂へ行き、お弁当はゴミ箱へ捨てていた。

ある朝母が嬉しそうに「今日は〇〇の大好きな海老入れといたよ」と私に言ってきた。
私は生返事でそのまま高校へ行き、こっそり中身を確認した。
すると確に海老が入っていたが殻剥きもめちゃくちゃだし彩りも悪いし、
とても食べられなかった。
家に帰ると母は私に「今日の弁当美味しかった?」としつこく尋ねてきた。
私はその時イライラしていたし、いつもの母の弁当に対する鬱憤も溜っていたので
「うるさいな!あんな汚い弁当捨てたよ!もう作らなくていいから」とついきつく言ってしまった。

母は悲しそうに「気付かなくてごめんね…」と言いそれから弁当を作らなくなった。
それから半年後、母は死んだ。私の知らない病気だった。
母の遺品を整理していたら日記が出てきた。

中を見ると弁当のことばかり書いていた。
「手の震えが止まらず上手く卵が焼けない」
日記はあの日で終わっていた。
「今日は〇〇の好きな海老を入れた。相変わらず体が思うように動かなくてぐちゃぐちゃ
になったけど…喜んでくれると良いな」

何で食べてあげなかったんだろう…今でも後悔と情けなさで涙が止まらない

生きたい

56:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 :2007/07/05(木) 08:10:24.60 ID:Jg+AcEeL0
生きててもさ、無駄なんだよ、俺。
きっと何しても上手くいかないんだよ。
ただダラダラと生きててさ。
いっそ本気で死んじまおうかな。

58:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。2007/07/05(木) 08:12:48.05 ID:peSyhKq70

死んでもいいけど。とりあえず、自分のレスを縦読みだな。
自分の心の声に気付いてやれよ。

60:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 :2007/07/05(木) 08:14:34.40 ID:Jg+AcEeL0

…もっかいバイト探して見る。
ありがと。

2009年11月23日月曜日

貧乏旅行

234 名前:おさかなくわえた名無しさん sage 投稿日:2007/08/29(水) 07:20:20 ID:VYXdz2Zj
学生時代、貧乏旅行をした。帰途、寝台列車の切符を買ったら、残金が80円!
もう丸一日以上何も食べていない。家に着くのは約36時間後…。
空腹をどうやり過ごすか考えつつ、駅のホームでしょんぼりしていた。

すると、見知らぬお婆さんが心配そうな表情で声を掛けてくれた。
わけを話すと、持っていた茹で卵を2個分けてくれた。
さらに、私のポケットに千円札をねじ込もうとする。
さすがにそれは遠慮しようと思ったが、お婆さん曰く、
「あなたが大人になって、同じ境遇の若者を見たら手を差し伸べてあげなさい。
 社会ってそういうものよ」
私は感極まって泣いてしまった。

お婆さんと別れて列車に乗り込むと、同じボックスにはお爺さんが。
最近産まれた初孫のことを詠った自作の和歌集を携えて遊びに行くという。
ホチキスで留めただけの冊子だったので、あり合わせの
糸を撚って紐を作り、和綴じにしてあげた。
ただそれだけなんだが、お爺さんは座席の上に正座して
ぴったりと手をつき、まだ21歳(当時)の私に深々と頭を下げた。
「あなたの心づくしは生涯忘れない。孫も果報者だ。
 物でお礼に代えられるとは思わないが、気は心だ。
 せめて弁当くらいは出させて欲しい。どうか無礼と思わんで下さい」
恐縮したが、こちらの心まで温かくなった。

結局、車中で2度も最上級の弁当をご馳走になり、
駅でお婆さんに貰ったお金は遣わずじまいだった。
何か有意義なことに遣おうと思いつつ、その千円札は14年後の今もまだ手元にある。
腹立たしい老人を見ることも少なくないけれど、
こういう人たちと触れ合うことができた私は物凄く幸運だ。



友情2

804 名前:名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/05(水) 17:31:22

あるベトナムの村に宣教師たちの運営する孤児院がありましたが、爆撃を受けてしまいました。
宣教師達と2人の子供達が即死し、その他の者も重傷を負いました。
重傷になったものたちの中でも8才の女の子は最も危ない状態でした。
無線で助けを求めると、しばらくしてアメリカ海軍の医者と看護婦が到着しました。
大量に出血したことにより危ない状態にあり、早く手当をしないと少女は命を落とすことになります。

輸血が必要でした。しかしどうやってそれを行うことができるというのでしょうか。
言葉が通じないため、ジェスチャーを使って子供達を集め、何がおきていたのかを説明し、
誰かが血液を提供することが必要であることを伝えようとしました。
沈黙の時間がしばらく続いた後、一本の細い腕が恐る恐るあがりました。

ヘングという名の少年でした。

急いで少年の準備をすると、苦しむ少女の隣に寝かせ、輸血ようの管をとりつけました。
少年は黙ったまま天井をじっと見つめていました。
しばらくすると、少年は自由になっている手で顔を覆うと、しゃくりあげるように泣いているのでした。
医師がどこか痛いのかと尋ねるとそうではないようでした。
しかし、しばらくするとまた、しゃくりあげ、今度は大粒の涙をこぼしていました。
医師は気になり、再び尋ねましたが、またもや彼は否定しました。
ときどきしゃくりあげていたのが、やがて静かに泣き出しました。

明らかに何かが間違っているようでした。

すると別の村からベトナム人の看護婦が現れました。
医師はその看護婦にヘングに何が起きたのか尋ねてくれるように頼みました。
すると少年の苦しそうな表情はゆるみ、しばらくすると彼の顔は再び平静を取り戻しました。
すると看護婦はアメリカ人の医師達に説明しました。
「彼はもう自分が死ぬのかと思っていたんです。あなた達が説明したことを理解しておらず、少女を助けるため、全ての血液を提供しなければいけないと思ったようです。」
すると医師はベトナム人看護婦の助けを借り、少年にきいてみました。
「そうであればどうしてあなたは血液を提供しようと決心したんですか。」
すると少年は単純に応えました。

「あの子はぼくの友達なんです。」
テレビ、有名週刊誌で噂の加齢臭対策サプリメント

老紳士

80歳くらいの年配の紳士が指の抜糸をしてもらいにやってきた。
彼は9時に約束があって急いでいたので私はすぐに診察することにした。
傷を診てみると、もうほとんど治癒状態で私は抜糸をすることにした。
傷の処置をしながら、なぜそんなにお急ぎなのですか、と訊いた。
老紳士は、老人ホームの妻といっしょに朝食を摂ることになっているんです、と答えた。
彼の妻の健康を尋ねると、認知症で老人ホームにすこし前から入居しているんです、と言った。
それでは遅れると奥さんが困りますね、と問うと、
老紳士は、妻は数年来もう私のことが分からないのです、と答えた。
「もうあなたが分からないというのに、あなたは毎朝奥さんのところに行かれるんですか?」
紳士は私の手を軽くたたいて微笑んで言った。
「妻はもう私のことが分からないですが、私はまだ妻のことが分かるんです」



都営線の地下鉄

都営線の地下鉄に乗っていたときの事。

空いている時間だけど席はほぼ埋まっていて、自分を含めてちらほら立つ人が出始めてたぐらい。
俺が立っているドアの反対側のシートの端っこには、いかにもDQNな17~8の若い男が
だらしなく座ってゲームに興じていた。
プリント柄が入った上下揃いのジャージに、ぶっとい金チェーンのブレスとネックレスっていう、
まさに絵に描いたようなDQNスタイル。周囲の目なんかお構いなしで、
一心不乱にPSPに没頭している姿が、いかにも不愉快な感じだった。

二駅ほど過ぎた時、スーパーの買い物袋を下げて、白い杖をもった年配の女性が一人で乗ってきた。
顔つきを見れば、そのおばあさんが極端な弱視だってことは瞬時に分かった。
だけど、つり革に捉まって立っていた自分は、譲ってあげられる席がないので、
どうしていいか分からずにその人を目で追うだけだった。

そのおばあさんが例のDQNの前を通りすぎようとしたとき、何気に目を上げたDQNは
おばあさんの姿を見た瞬間、驚いた事にいきなりおばあさんの腕を掴んだ。
おばあさんも吃驚して立ち止まり、よく見えない目で自分に何が起こったのか確かめようとしている。

それを見ていた俺は、「うわぁこのDQNが何するつもりだ!」って驚いたけど、
次の瞬間、そのDQNボーイはすっと脇によけつつ席を立つと、おばあさんの腕を静かに支えながら、
空けた席にゆっくり座らせてしまった。

流れるような美しい動作だった。

いつも、人に席を譲ったり足の弱い人を支えたりとかを習慣的にやってる人じゃなければ、
あんな美しくスムーズな動作は出来ないと思う。

DQN(と俺が勝手にレッテルを貼っていた)若者は礼を言うおばあさんへの返事もそこそこに、
空いているドア脇の空間に移動すると、そこでまただらしなく寄り掛かって何事も無かったように
ゲームを続けていた。

俺は心の中で敬礼したよ。
人の心の美しさは、浸っている文化で決まるもんじゃないな。
レッテルを貼ってた自分を反省したし、そういうシーンを見せて貰えた事に感謝した。
まだまだいけるよ、この国は。



ビートたけし

159:仕様書無しさん 2009/10/27(火) 22:13:06 [sage]
たけしの場合はプロデューサーとかの打ち合わせとかで忙しいからだろうな。
それに下の人間に挨拶されると照れるらしいし。平成教育委員会でも番組終了後
たけしに最敬礼する若手やモデルとか
「いいからさっさと帰りな」
てうながしてる。

たかじんの番組で「唯一たけしが現場で怒ったエピソード」を紹介していたが
 おそらくスーパージョッキーだと思うんだが、ガンバルマンの収録でセットに
釘が一本落ちていた。たけしはそれを見るなり
「プロデューサーとディレクター全員集めろ!!」
と怒鳴った。そして何事かとみなが集まると
「これはなんだ!あぶねえじゃねえか!うちの若いものがこれで怪我したら
 どうしてくれるんだ!!」

たけしはその話がタカから出たら
「こいつら特別芸があるわけでもなかったから、体張るしかなかったんだよ。
 弁当がまずいだのはどうでもいいけど、怪我させたら仕事はできないし、
 俺が気をつけてやれるのはこういうことしかないからね。」
と照れながら言っていたね。こういうのが本当に怒るってことなんだろうね。
 
普通こういうことは注意してくれる人はいない。嫌われたくないし、面倒だから
気がついたら自分でかたづければなんでもないが、後で大事故がおこるかもしれない。
注意できる人が嫌われるの承知で注意してくれる。ありがたいよね、こういう人と
仕事できる人は。

神様への手紙

215 名前:2ちゃんねるのどこか 投稿日:2008/11/28(金) 10:33:11
4歳になる娘が、字を教えてほしいといってきたので、
どうせすぐ飽きるだろうと思いつつも、毎晩教えていた。
ある日、娘の通っている保育園の先生から電話があった。
「○○ちゃんから、神様に手紙を届けて欲しいって言われたんです」
こっそりと中を読んでみたら、
「いいこにするので、ぱぱをかえしてください。おねがいします」
と書いてあったそうだ。
旦那は4年前、娘が産まれる5ヶ月前に病気で他界した。
字を覚えたかったのは、神様に手紙を書くためだったんだ・・・。
受話器を持ったまま、私も先生も泣いてしまった。
「もう少ししたら、パパ戻って来るんだよ~」
最近、娘が明るい声を出す意味がこれでやっと繋がった。
娘の心と、写真にしか残っていない旦那を思って涙が止まらない。

友情

93:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2009/10/09(金) 23:49:24 .05 ID:FrYG5Geu0
俺はセイコーマートで働いて三年目になる。いつもくる小さな子の話を一つ。
その子は生まれつき目が見えないらしく白い杖をつき母親と一緒に週に二、三度うちの店を訪れる客だった。
ある日、その子が一人で入口の前に立っている。入口のドアが引くタイプだったので俺はドアを開けてあげようとした。
その瞬間!同年代らしき糞ガキ二人が「お前さぁ、目見えねぇんだろ?素直に親帰ってくるまで家でおとなしく留守番でもしてろよ。バカだなぁ」といった。
さすがに俺も障害をもった人間に冷たくする人間は許せなかったので入口に向かったその時!
ガキの片方が「ほら、先に入れよ。ドア開けといてやるからよ。」と言った。
そしてその子の手をつなぎ、「何買いに来たんだ?」と二人組の片方が言うと、その子は「お母さんがすごい熱が出てるの。だから水枕に入れる氷買いにきたの。」と言った。
そして俺がレジで「398円です。」と言うと、二人組が「いいよ。俺が出しといてやるよ!そのかわりお前のお母ちゃんがよくなったら俺たちと遊べよな!」といい会計をすました。
そしてきっとその子の家までだろう。片方が氷をもち、片方はその子の手を繋いで帰っていった。
小さな子ども達の友情に感動!


EXPO

584 :EXPO'774:2005/09/26(月) 11:09:33 ID:jucRN/js
ここで良いのか?と思いながら・・・・(w
本当は、昨日レス入れようと思ったんだけど、昨日はみんなが
リアルタイムで見ている所に、長レスは迷惑になると思った
ので控えました。見ててくれる事を願って・・・・
土曜日の14時頃、コーカサス館で娘(小3)にバラソフトを
買って下さった方、有難うございました。
娘が戻って来て、買って頂いた事を知って慌てて周囲を探した
のですが、もう見当たらなくて。

娘に聞いたら、多分・・・携帯で見てたのは「2ちゃんねる」
だと思うと言う事だったので。
うちの娘、聴覚障害者でお金と「ばらソフトクリーム1個下さい」と
書いたカードを持たせて買いに行かせました。話しを聞くと、順番が
来る前に注文を書いた紙を出そうとしたらない・・・・
涙目になって、お姉さんのオーダーに答えようとしていたら、後ろに
いた「お兄ちゃん」が、写真を指差し、携帯画面で「これでいい?」て
聞いてくれたそうです。うん、とうなずいたら、そのソフトを2個
買って一つを娘に手渡してくれました。娘がお金を渡すと「いいよ、
お兄ちゃん一人で来たから一度二つ買ってみたかった」と言う文章を
見せてくれたそうです。

その人がここの人がどうか分りませんが、とにかくお礼を言いたかった
ので、こちらを借りてレスさせて頂きました。
どうも有難う。何度か万博へ行って色んな思い出がありますが・・・・
多分・・・この思い出が私の中でも、娘の中でも最高の思い出だと
思います。素敵な思い出をどうも有難うございました。

2009年11月22日日曜日

勉強とは・・・

875 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:2008/03/02(日) 20:28:28 ID:2rBfCUUt
ボランティアに言った病院で難病の子供が言った言葉です。

「○○くんはいつも教科書や本を読んで勉強しているね?
 大きくなったら何になるの?」
「僕は大人にはなれないんだ。僕の病気は治らないから。」

言葉が継げずにいると、

「でも勉強がしたい。せっかく生まれてきたから、いっぱいいろんなことを知りたい。」

わずか、11歳の子でした。

私はこの言葉を思い出すと、今でも自らの浅学が恥ずかしくてたまりません。

ディズニーランド

事情があって生活保護を受けている母子家庭の知人の子供が、夏休みに法事で東京へ来た。

「おじさんがディズニーランドへ連れてってあげるよ」と言うと
頑なに固辞するので、子供のくせに遠慮するなあと思って理由を訊いたら
「だって高いから」とだけ言うと、その子は下を向いてしまった。
「じゃあおじさんと、明日どこかドライブへ行こう」と次の早朝連れ出した。

首都高から湾岸線、浦安で降りるとTDLの看板があり、その子は
まだきょとんとしていたが、駐車場へ入るあの角を曲がったときの
その子の驚きと感動の歓声が忘れられない。


持ちきれないくらいのおみやげを買ってやり、
5万くらい使ったが、馬にぶち込むよりはいい使い方だと思った。

嫁の夢

19:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2009/10/09(金) 22:55:18 .90 ID:bhJk7rf/0[sage]

昨日夢を見た。
嫁の「起きろー!」と言う馬鹿でかい声で目が覚める。
テーブルには娘がもう嫁が作った朝ご飯を食べている。
嫁が「はいよっ」と眠気覚ましのコーヒーを入れてくれる。
ちょっと味が濃い。でもものすごくうまい。俺の好きな味をよく知ってる。
会社に行く支度して嫁にネクタイ締めてもらって「はいっ、いってらっしゃい^^」
と背中をポンと叩かれ「いってきまーす」と玄関を開けたとこで娘の「起きろー!」という声で夢から覚めた。

娘「お父さんニヤニヤして寝てたよ」

娘「良い夢でも見てた?」

俺「うん。お母さんに久しぶりに会ったよ」

娘が眠気覚ましのコーヒーを入れてくれた。夢と同じ味がした。

遺影の嫁がいつもより笑ってる気がした。

アメリカの心

446 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2009/03/18(水) 00:16:37.45 ID:cz01BBO00
アメリカのとある地方に野球観戦の大好きな、
でも、目の見えない少年がいました。
少年は大リーグ屈指のスラッガーである選手にあこがれています。
少年はその選手へファンレターをつづりました。

「ぼくは、めがみえません。でも、毎日あなたのホームランをたのしみにしています。
しゅじゅつをすれば見えるようになるのですが、こわくてたまりません。
あなたのようなつよいこころがほしい。ぼくのヒーローへ。」

少年のことがマスコミの目にとまり、二人の対面が実現することになりました。
カメラのフラッシュの中、ヒーローと少年はこう約束します。
今度の試合でホームランを放てば、少年は勇気をもって手術に臨む、と。
そして、その試合、ヒーローによる最後の打席。2ストライク3ボール。
テレビや新聞を見た多くのファンが、スタジアムで固唾をのんで見守り、
少年自身も、テレビの中継を祈る思いで聞いています。
ピッチャーが投げた最後のボールは、大きな空振りとともに、キャッチャーミットに突き刺さりました。
全米から大きなためいきが漏れようとしたその時、
スタジアムの実況が、こう伝えました。

「ホームラン! 月にまで届きそうな、大きな大きなホームランです!」

モンゴル国と日本の関係

15:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2009/10/09(金) 22:51:48 .24 ID:bhJk7rf/0
阪神大震災は、モンゴルでも重大ニュースとして報道され大きなショックを与えた。
モンゴル政府はただちに臨時閣議を開き、救援物資を送ることを決めた。
それも、ただ送るということではなく、一刻も早く届けようとしたのだ。
毛布2100枚、手袋500組その他を直ちに政府特別機に積み込み、
プレブドルジ副首相は国民を代表して見舞いにやってきてくれた。

モンゴル国は、以前はモンゴル人民共和国と称していた。
ソビエト連邦の衛星国の一つとして、ソ連共産党の指導下に長きにわたり入っていたが、
その時代でさえ、モンゴルは日本に極めて好意的な国家として、経済・文化交流などで
緊密な間柄を保っていた。
そのことにソ連が不快感を示しても、モンゴル政府は、
『 血の繋がりは、共産主義の教義よりも強し 』
としてこれを無視してきたのである・・・・。

ソ連崩壊後、モンゴルは自由主義国家を目指し、市場経済への道を歩み始めた。
日本は同国にとっての最大の援助国として全面的に支援してきた。
同国は日本の長きにわたる援助を多とし、感謝の気持ちを込めて救援に駆けつけて
くれたのであろう。

関西空港で出迎えた外務省幹部が感謝の意を表明するとともに、長旅を労って
休息していただこうとしたが、「長居をしてご迷惑を掛けたくない」と、
わずか90分だけの日本滞在で機上の人となった。
日本では「困った時の友が真の友」という。
モンゴルにも「困難に直面する時こそ、友人の価値が分かる」という諺があるという。
小さな国からの、大きな贈り物であった。

カカ

360 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2009/03/17(火) 22:12:44.84 ID:l9Surzqw0
カカなんて大したことはない。
お父さんはエンジニアでお母さんは大学教授で、幼い頃から名門サンパウロでプレーし、
小学生の頃サンパウロジュニアで日本の山形に短期滞在して、その時お世話になった老夫婦の恩を忘れず、
ずっと手紙でやり取りし、02年ワールドカップで日本に来たときブラジル代表戦のチケットを老夫婦に送り、
その当時貰ったこいのぼりのおもちゃや5000円札を今でも大切に持っていて、
18歳の頃、プールで飛び込みをした時に脊髄を損傷し視力がかなり落ちても夢を諦めずプロになり、イタリアの名門ACミランに移籍して富と栄誉を手にして、
昔から付き合ってる幼馴染はクリスチャン・ディオール・ブラジルの偉いさんのご令嬢で、
すんごい美人で料理が上手なのにメディアにしゃしゃり出たりせず、
ミラノの大学に在学中で結婚の約束をしているのに正式に結婚するまではセックスはしないと誓い、
それを頑なに守った。そんなドコにでもいるプレーヤー、それがカカ。

日本の船乗り

2000年7月4日、20世紀最後のアメリカ独立記念日を祝う洋上式典に参加するため、
世界各国の帆船170隻、海軍の艦艇70隻がニューヨーク港に集結した。
翌日の5日に英国の豪華客船「クイーンエリザベス号」が入港してきたのだが、
折悪しくも2ノット半の急流となっていたハドソン河の流れに押された
巨大な客船は、あれよあれよと言う間もなく、
係留中の我が海上自衛隊の自衛艦「かしま」の船首部分に接触してしまったのである。
着岸した「QE」からすぐさま、船長のメッセージを携えた機関長と一等航海士が謝罪にやってきた。
相手の詫び言に対応した「かしま」艦長はこう答えた。


「幸い損傷も軽かったし、別段気にしておりません。
それよりも女王陛下にキスされて光栄に思っております」


これが何千人もの船乗りたちの間で大評判になり、
ニューヨークだけでなく、ロンドンにも伝わって
「タイムズ」や「イブニング・スタンダード」も記事にし
日本のネイバル・オフィサーのユーモアのセンスを評価する声が高かったそうである。
「かしま」艦長、上田勝恵一等海佐の対応の見事さは勲章ものではないでしょうか。

大工さんと猫

786 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:2007/12/05(水) 11:22:50 ID:AjQZOmoo
近所に工事中の家がある。
夕方通りかかったら、撤収作業中らしき大工さん達がいた。
その中の一人がいきなり「どっっっっっせええええやあああああっっ!」と叫んで走り出した。
他の大工さんも一斉に後を追いかける。
何事かと思ったら、塗り立てコンクリの上を猫が横切ろうとしていた。
「綺麗に塗ったのに!綺麗に塗ったのに!」と地団駄踏む大工さんと
「セーフセーフ!大丈夫だ!」と励ましながら猫を追い払う大工さんを見て;`;:゙;`(;゚;ж;゚; )ブッ

すごろく

362 名前:躯 ◆jk0cn7Uk1o 投稿日:04/05/23 19:43 ID:YasGQFUA
オレは小さい頃、家の事情でばあちゃんに預けられていた。
当初、見知らぬ土地に来て間もなく当然友達もいない。
いつしかオレはノートに、自分が考えたすごろくを書くのに夢中になっていた。
それをばあちゃんに見せては
「ここでモンスターが出るんだよ」
「ここに止まったら三回休み~」
ばあちゃんはニコニコしながら、「ほうそうかい、そいつはすごいねぇ」と相づちを打ってくれる。
それが何故かすごく嬉しくて、何冊も何冊も書いていた。
やがてオレにも友達が出き、そんなこともせず友達と遊びまくってたころ
家の事情も解消され、自分の家に戻った。ばあちゃんは別れる時もニコニコしていて、
「おとうさん、おかあさんと一緒に暮らせるようになってよかったねぇ」と喜んでくれた。

先日、そのばあちゃんが死んだ。89歳の大往生だった。
遺品を整理していた母から、「あんたに」と一冊のノートをもらった。
開いてみると、そこにはばあちゃんが作ったすごろくが書かれてあった。
モンスターの絵らしき物が書かれていたり、何故かぬらりひょんとか
妖怪も混じっていたり。「ばあちゃん、よく作ったな」とちょっと苦笑していた。
最後のあがりのページを見た。「あがり」と達筆な字で書かれていた、その下に

「義弘(オレ)くんに友達がいっぱいできますように」

人前で、親の前で号泣したのはあれが初めてでした。
ばあちゃん、死に目に会えなくてごめんよ。そしてありがとう。

家族写真

俺が小さい頃に撮った家族写真が一枚ある。
見た目普通の写真なんだけど、実はその時父が難病(失念)を宣告されていて
それほど持たないだろうと言われ、入院前に今生最後の写真はせめて家族と・・・と撮った写真らしかった。
俺と妹はまだそれを理解できずに無邪気に笑って写っているんだが、
母と祖父、祖母は心なしか固いというか思い詰めた表情で写っている。
当の父はというと、どっしりと腹をくくったと言う感じで、とても穏やかな表情だった。

母がその写真を病床の父に持って行ったんだが、その写真を見せられた父は
特に興味も示さない様子で「その辺に置いといてくれ、気が向いたら見るから」と
ぶっきらぼうだったらしい。母も、それが父にとって最後の写真と言う事で、見たがらないものをあまり
無理強いするのもよくないと思って、そのままベッドのそばに適当にしまっておいた。

しばらくして父が逝き、病院から荷物を引き揚げる時に改めて見つけたその写真は、
まるで大昔からあったようなボロボロさで、家族が写っている部分には父の指紋がびっしり付いていた。

普段もとても物静かで、宣告された時も見た目普段と変わらずに平常だった父だが、
人目のない時、病床でこの写真をどういう気持ちで見ていたんだろうか。

今、お盆になると、その写真を見ながら父の思い出話に華が咲く。
祖父、祖母、母、妹、俺・・・。

上司

 漏れの上司の話だが、消防の頃に初恋の相手と付き合って中学で結婚する約束して18でマジで結婚。
 26才でその妻が亡くなってから38の現在までその人以外を好きになった事も抱いた事も無いって人居るよ。
 180のイケメンで高収入、めちゃめちゃ優しい人なのに…
 昼休みは毎日アルバム見ながら微笑んでて、たまに見せる遠い目が可哀想で仕方ない。

ホームレスのおっちゃん

1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/12/15(月) 19:17:28.91 ID:FE6j+YqT0
ある日俺は街へ出掛けた。
「暇だなぁ。本でみるか」
と思い本屋へ向かってる途中に一人のホームレスが寝ていた。
「邪魔くせーな。うぜー。」
と思い歩いてると突然3才くらいの男の子が道路に走っていった。すると、
「プププー!!!」
爆音が鳴りびいた瞬間、
さっきまで寝ていたホームレスの男性が突然走りだし、
子供を抱きかかえ草むらに飛びこんだ。
俺はまわりを見渡すとボーゼンと立ちすくんでるおじさん、おばさん。
「すげ」
とか言ってる若者。
俺はその瞬間自分の情けなさ、それとただ単に見ていただけの人間。
俺は思った。
「ホームレスが汚い?生きてる意味がない?ざけんじゃんじゃねえ。
 なんだよお前ら・・・なんだよ俺・・・本当に強いのは、
 このホームレスのおっちゃんだろーが!!」
俺は拳をにぎりしめた。
その後、3才ぐらいの男の子の母親がすかさずかけより、
「ありがとうございます。ありがとうございます。これ少ないですけど・・・」
と言ってお金を渡そうとしていた。
するとホームレスのおっちゃんは言った。
「すいません。受け取れません。でも約束してください。
 絶対に小さい子から目を話さないであげてください。約束です。」
俺は初めて人の暖かさを知った。

メール

色々な事が重なって、
友達に

「死にたい。こんな自分嫌い」

とうざいメールした。
夜中だったし絶対寝てると思ったら五分後、

「何があったか知らないけど、私の好きな人の事を嫌いとか言わないでくれる?」

と返事がきた。
まじめに嬉しくて涙がでた

2009年11月21日土曜日

将来の夢

126 おさかなくわえた名無しさん sage 2008/12/09(火) 19:43:24 ID:naXzNI4H
前を歩いていた小学生二人が突然片方が立ち止まり、
「あ!おれ、学校に忘れてきた!」
「え?何を?」
「将来の夢!」(たぶん宿題か何かの題名)
と言って戻って行ったのを見て、ちょうどその後ろを歩いていたおじさん二人が
「俺も忘れてきた気がするな」
「気づいても取りに戻れないだろ」
とか言ってて吹きそうだった。

マッサージチェア

227 Mr.名無しさん sage 04/09/08 23:49
カーチャン、なかなか親孝行できなくてゴメンな。本当は家事を手伝ったり、
「カーチャンの作る飯が一番ンマイよ!」と言ったり
孫の顔を見せたりしたいんだが・・・

金銭的な孝行だけで(しかもそれも少ない)スマソ。
大学生の弟が居るんだが、もうじき学費の振込だ。なけなしの貯金20マソだが、足しにしてくれ・・・
本当はマッサージチェアを買ってやりたかった。40マソはする奴な…ムリポorz

228 Mr.名無しさん 04/09/09 01:01
>>227
40万が無いなら、お前の両手があるだろ。
その手は飾りか?

カアチャン喜ぶぞ。

2009年11月20日金曜日

お弁当

851 :番組の途中ですが名無しです :2006/05/22(月) 22:17:50
 幼稚園の時弁当の時間に仲良かったTちゃんがとなりに座ってて、
「おかずとっかえっこしよ」といってきた。 「うん、いいよ」と私。
そしたらTちゃんの反対側に座ってたAってコが聞こえよがしに耳打ちしたんだわ。
「Nちゃんのお弁当、ごはんばっかだから損だよ。 やめなよ」

たしかに私の弁当箱はご飯を入れるスペースが広かったんだけどね。
母の実家は米どころ宮城でさ。 いつもササニシキのとれたてを送ってもらってて。
しかも釜炊きだったから、私にとってはうちの白飯はご馳走だったわけ。
おむすび弁当だって大好きだった。
別にTちゃんには普通にその日のおかずのコロッケとかそういうのあげるつもり
だったんだけど、Aのこの一言でカーっと頭に血が上ってね。

次の瞬間号泣しながらAに掴みかかってった。 楽しいはずの弁当タイムに
突然女の子同士のつかみ合い勃発に大慌てで引き剥がす担任。
押さえつけられながら
「おかあちゃんのおべんとう美味しいもん!Aちゃんなんか大嫌いだ!」
とか延々さけんでた。 …弁当ひっくりかえしちゃったんだけどさ…

その後私とAは別々に呼ばれて事の発端を説明させられた。
その日のお迎えのときに担任が母と少しの間話してた。
(Aの親も同様になんかいわれてた)

帰り道、いつ怒られるのかとびくびくしてる私に母はなにも言わなかったよ。
いつもと全く変わらんの。 ただ、その日の晩御飯はいつもより時間が早く、
メニューは私の大好きなハンバーグだった。もちろん炊きたてご飯たっぷり。



852 :番組の途中ですが名無しです :2006/05/22(月) 22:20:17
で、次の日持たされた弁当がいつもと様子が違うわけ。
なんか包みがごつい。
「お弁当の時間まであけちゃだめだからね」と念を押された。

午前のお時間がすぎて弁当タイム。
中から子供の自分の顔なんぞすっぽり隠すくらいでっかいおむすびが1個出てきた。
おかずは卵焼き、唐揚げ、いぶりがっこ…だったかな。
もう周り中から羨ましがられたよ。
「いいなあー!さるかに合戦みたい!」
「僕もママに同じのつくってもらう!!」
照れ笑いしながら一生懸命食った。 たらこだの梅だのねりおかかだの
色々入っててさながらビックリ箱おむすび。
途中で腹くちくなったけど最後まで休み休み平らげた。 

帰宅してからっぽになった包み手渡したら、顔中くしゃくしゃにして喜んでくれましたね。
おかあさん有難う。改めてうちのご飯は世界一だと思ったよ。
ガキのクセに生意気な感想だけど。

家を出た今も、米は釜で炊いてるよ。
でーっかい具たくさんおむすびは私が落ち込んだときに作る
必殺入魂メニューです。

タイムマシン

388:本当にあった怖い名無し 2009/09/21(月) 23:12:44 ID:pGOS4AMu0[sage]
皆も過去に戻れたら自分殺すよな?


394:本当にあった怖い名無し 2009/09/21(月) 23:23:45 ID:VqG8vYNe0
>>388
もし戻れたのなら
母を即病院へ連れて行く。
自分殺すなんざ今でも出来るだろ。

青い鳥

優しい気持ちになれるコピペか画像貼ってください
116 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/02/06(日) 22:36

昨日、フリーマーケットやYahoo!オークションで売りさばく物を探すために押し入れを引っかき回していたら、二十数年前の日付の日記が出てきた。
うちの母が書いたものらしい。
開いてみたら、俺が生まれてから一歳までの間の毎日の俺に関する出来事が書き綴られていた。「今日は指をしゃぶっていた」「もうすぐ立てそうだ」とか。
まさか、あの頃は俺がこんなダメでネクラで元気がないクズに育つとは夢にも思っていなかったんだろうな。
罪悪感と不甲斐なさで涙が出てきた。
最初は焼却炉に放り込もうかと思ったが、それは思いとどまって新聞紙でグルグル巻きにして同じく押し入れから出てきた昔のレコードと一緒に箱詰めにして押し入れの奥深くに封印した。もう二度と見たくない。
これを書き込んでいたら再び涙が出てきた。
残念ながら俺は親にとっての青い鳥ではなかった。今まで散々期待させておいて一つも応えられなくて本当にごめんなさい。
兄はもう俺の歳には結婚して子供もいるのに。
こんな状況なのに母は「早くあんたの彼女やお嫁さん、孫が見たい」なんて言っている。
はっきり宣告する。もう無理。絶対無理。定職にも就けずにおまけにネクラ、元気無し。孤独好き。こんな奴が結婚なんかできる筈がない。
俺の心の中の青い鳥は最近ようやく死んでくれた。



117 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/02/06(日) 22:45

∩_∩  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
( ´∀`)<羽ばたいていないから
(    ) \ 死んだように見えるだけさ。
| | |    \
(__)_)     ――――――

256 名前

少年と犬

目付きは悪いが顔は良い少年が近所の白犬をモフモフして遊んでたら
飼い主のおばあちゃんに見られて赤くなりながら慌てて言い訳してたのを見た時。
そしてそのおばあちゃんにいくらでも遊んでやってね、と言われて
凄く嬉しそうな顔をしたのを見た時。

俺は全て見ていたぞ少年。こんな風に平和なのって良いよな。

メイド服

この間あった会社での忘年会。
くじ引きであたった人は幹事が用意したパーティーグッズを身に付けなければならなかったのだが
今年入社したばかりのA君(25歳)に、メイド服が当たってしまった。
A君はルックスが良いわけではないが、オシャレには気を使うタイプだったので
誰もが嫌がって着ないだろうと思っていた。
ところが、「ちょwww どうしようwww サイズ合うかなwww」と言いながらトイレへ向かうA君。

数分後、トイレから戻って来たA君はネコ耳メイドになっていた。
A君は大学までラグビーをやっていて、ガッチリした体型。
サイズ的にもピチピチにはちきれそうになっていて似合うわけもなく、全員が大爆笑。
本人はからかわれ、照れたり困ったりしていたが「スカートってすーすーするんですね」
などと素で答えていた。
さらに言われるままに「お疲れ様です、御主人様★」とビールをついで回り、どこでもすっかり大人気に。
普段は控えめでおとなしく仕事をする人だったので、誰もが驚いた。

帰り道、同僚が「A君、嫌なときは普通に断って良いんだからね」と言うと、
(女の子で動物の着ぐるみが当たった子がいたので、交換することもできた)
A君は「僕があそこで断ってたら皆が嫌な雰囲気になるじゃないですか。それに
僕が断ったものを他の人に回したら、その人だって気分良くないだろうし」
とさらっと答えた。

なんていい人なんだ…!
昨年メイド服を必死で拒否した自分が恥ずかしくなってしまった。

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